INTELLIGENCE
♯ “梨花に冠を正さず”を望む
Copywritting by Nobuo Nakahara
このところ、国指定品 殊に重美に関して色々と調べているうちに、名儀人という事で少し思いあたった事があり、書いておきたい。
もう10年以上も前になるが、当時の日刀保の専務理事であった鈴木嘉定氏が、某刀剣商の攻撃対象とされて弱りきっていた事がある。勿論、公益財団になる前で、日刀保は文化庁ともギクシャクしていた頃であるが、重要刀剣の名儀人に日刀保関係者の名前が堂々と出ていた点をつかまえて、その某刀剣商は攻撃したのである。少し前であるが、この点に関して私の見解を『豆知識』(刀剣杉田WEBサイトに掲載)の欄で書かせていただいたので、是非それを参照していただきたい。
さて、ここでは重美の名儀人について話をすると、既述の昭和23年指定でT県のS氏が村上先生の事務所に持込んだ在銘の刀。この指定名儀人は、何人兄弟か(恐らく少なくとも4人)の一人と思われ、全く同じ住所。そして、その親(これも同住所)である人物M氏は、重美指定に関わった本間順治氏の師匠格にあたる人物でもあり、文部省の文化財指定にも関わって、林野庁や警察畑の要職を歴任した人物である。このM氏が戦後に亡くなって間もなく、日刀保は上野の国立博物館地下から代々木へ移動。この点に関しては既述したと思うので、再度は取り上げない。さて、このM氏の名儀でも1本重美になっている。初代忠吉である。この事は『肥前の刀と鐔』にも注記がある。恐らく、息子の名儀で指定したのも、実際は親の所蔵品であったとも思われる。こうした事は、前述の某刀剣商の論理からいうと言語道断。それこそ街宣車で毎日騒いでもしょうがないものであろう。
しかし、私は別に名儀人が誰であろうと、そんな事は全く何とも思っていない。その証拠に、平成8年指定の重刀に名儀人 山中貞則とあり、指定人としての日刀保会長(当時)山中貞則とある刀がある。これはとうとう、『刀剣美術』にも発表されないものであった。これを某刀剣商は色々とガナリ立てたが、私に言わせれば、よくぞ二流とされる新々刀地方作に重刀という肩書を与えてくれた。有り難いという気持ちであったし、現に鑑定刀として使わせていただいた。出来が良いからであって、山中貞則以外の名儀人であっても、刀そのものの出来は不変。
さて、前述の重美の在銘の刀。実際は十一字在銘なのに、八字しか指定書に記入されていない。寸法も指定書にはないから、疑れば別物となるが、しかし、これは既述の如く調書の不備・誤りによる誤記載であったが、もはや“死に態”の重美については官報による訂正もされていないし、したくもないだろう。上意下達でやりっぱなし、後は民間で良きに計らえ・・・という感じか。
ここで、この重美の刀をどうして取り上げるのかというと、この刀は種々の書籍等にも所載されていて、基本とされているに近いもの。しかしである。この刀の最終の2文字の周囲と銘字の内に鑢目がみられないのである。つまり、最後の2文字が改鑽されている。これは当時、私も確認した。これである。刀の品質についてもっと精査しなければいけなかったのではないだろうか。これは指定当時、知っていた人達もいたと考えられ、万が一、そのような点を無視して指定してとしたら、これは大問題。しかも、名儀人の人脈の点が続いて出てくる。当時はもっと名儀人や親の事をよく知る人達がいた筈。しかも、重美制度がなくなる直前となれば、私の言う“駆込重美”といわれてもしょうがない。
私は、ここで特定の個人の事をあげつらっているのではなく、過去の教訓を痛切に学んで、刀社会をもっと評価される社会にしていきたいと思うだけ。まして、戦前(昭和初期)に重美指定に関し、刀剣界での騒動があった。その結果、文部省の担当役人である本間順治氏を批判した側に立つ本阿弥光遜は、中央刀剣会審査委員を辞めて、日本刀研究会を充実して対抗したのであった。こうした、騒ぎの誰が悪いのかを追求するのではなく、公的な審査に関わる人は、いつの時代も梨花に冠を正さず、という態度と誇りを極力保っていただきたい。因みに、審査では真偽と出来を十二分に吟味するのは当り前であるから念のため。
さて、この重美の刀は、もう姿を見かけないが、既に指摘した点を密かに直してあるかもしれないので・・・
(文責・中原信夫)