INTELLIGENCE
♯ 二つの胸像
Copywritting by Nobuo Nakahara
平成三十年一月から(公財)日本美術刀剣保存協会(以下、日刀保)は東京・両国に移転した。その後、私も数回にわたり日刀保を訪ねたが、これは私の用事ではなく、知人の依頼要件で行ったのである。
さて、玄関には二つの立派な胸像がある。故・佐藤貫一氏、故・本間順治氏の胸像であるが、準公的な施設に飾るにはそれなりの決定的な理由があるはず。例えば、初代会長以来代々のものとかというのが、一般の来館者の人達の認識であろう。しかし、この二つの胸像はそうではない。まず、佐藤貫一氏は会長にはなっていないで死去(昭和五十三年二月)されている。三代目以下の数人の胸像もない。確か、政治家二人もいたはず。それもない。となると会長職という根拠はなくなる。では本間順治氏は確かに会長であった。ただし、二代目である。どこの世界に二代目会長の胸像があって、初代がないという事があるのだろうか。
当時は財団法人であったが、常識的には初代を飾って、二代目と思うが、この人は初代を作らせることもなく、また、生前(元気でバリバリの頃)に臆面もなく、元の場所(東京・代々木)に胸像を作り飾っていた。これを飾ったのは昭和四十五・六年頃かと思うが、興味のある方は調べてください。しかし、二代目さんは戦前から初代さんに大変お世話になって、その著書等に”殿様“と書く細川護立が初代である。そんなに世話になった恩人なら、初代会長としてすぐに胸像を作るのが普通の人。しかし、そうではなかった。
では、会長職という根拠はなくなったのである。残りは日刀保に尽力したという根拠。
代々木の日刀保設立に尽力したのなら、他に大勢いる。有名な話であるが、代々木に移転するため(上野の国立博物館から移転した、といっても実際は追い出されたのであるが)寄附をした人達は大勢いる。何といってもその大口は大阪の故・田口儀之助氏と岡山の故・岡野太郎松氏。佐藤・本間両氏が田口氏に寄附を依頼に行った折、まず田口氏は開口一番このように言ったという。
「岡山の岡野はナンボ(寄附を)するのか!?・・・」であったという。両者共、昭和四十年代初頭で2000万円を超えた金額であると聞く。
この時、田口氏の名言(今となってはセクハラ?)「寄附と女は出来る間にする」と。これは村上先生から聞いた話。村上先生と田口氏とは親しかったし、二人とも同病。つまり糖尿病を持っていたのである。
以上からしても、日刀保に尽力したのなら田口・岡野氏の胸像となるはず。この両氏より少額にしても寄附をした人達も多くいる。したがって、尽力した人の胸像という根拠はなくなる。これで、二つの胸像を玄関に飾る根拠は全くゼロになった。強調しておくが、日刀保設立に尽力したのは本間・佐藤氏だけではない事を強く認識するべきである。
また、佐藤貫一氏の胸像は確か、本間氏のそれに較べてかなり遅れ、確か本人没後であったと思うが、興味があれば調べてください。
村上先生は佐藤氏没後、約五ヶ月後に亡くなられた。村上先生は生前、私に「本間さんもいいかげんに佐藤君に会長(日刀保)をゆずってやればいいのに・・・」とよく言われた事を思い出すが、極善人間の村上先生の述懐であって、極悪な人には通じなかった理屈。本間氏の胸像は、本人が「皆さんが作れ、作れというのですがね。私としてはまだまだその気は・・・」と口では言いながら、「そうですか・・・」と言いつつ、ちゃんとお作りになった。胸像の作者は確か本間氏の子息であったと思うが、不明確な記憶。いずれにしても順逆の典型。
(文責・中原信夫 平成三十年九月二十一日)