INTELLIGENCE
♯ 赤羽刀について今少
Copywritting by Nobuo Nakahara
豊臣秀吉による刀狩について調べるために『刀狩り』(岩波新書・藤木久志著・2005年刊)を少し読んでいると、面白いことに“マッカーサーの刀狩り”という記述があったので、少し述べておきたい。
私達刀剣人はマッカーサーの刀狩という表現には何となく、一般人とは違う感覚を覚えるのであるが・・・。
さて、文中に『昭和二十年九月二日、一般命令第一号が正式に発令され民間の武装解除が指示された。日本政府は日本刀は「日本人の魂」であり、民間の「家宝」だと主張し、それを「一般日本国民の所有する一切の武器」から除外しようとして、粘り強く画策した。軍部の軍刀の中にも、個人の持つ日本刀を軍刀に仕込み直したものも少なくなかった。』と書いてる。
揚足とりかも知れぬが、文中の“画策”という文字には、私はこの著者の考え方の方向がわかる様な気がする。そして、最後の文言にも、刀の日本文化に対する位置を全く理解していないし、また、しようとする考えもないと感じる。つまり、私達が日本の美術品の頂点と考えるのが刀であるという次元の全くワク外にこの著者は立っていると痛感する。つまりは、刀など日本に不要という考え方であり、刀などの野蛮なものは・・・という思考体系に近いと思うし、それはそれで別に構わないのであるが、刀でヒドい目にあった米兵と軌を一にした次元であろう。
その後では色々と調べた命令を時系列的に挙げて、いよいよ赤羽刀に移っていく。引用していくと・・・ 『関東で日本の警察が没収したすべての武器は、東京の赤羽にあった米軍第八軍兵器廠に集められた。第八軍司令部は、一九四八年(昭和二十三)二月、赤羽に保管していた日本刀のうち約四〇万本を、兵器廠内で六〜十二インチに切断すること条件に、日本政府に放出した。しかし、適当な切断機はなかった。そのため、日本政府は三菱製鋼にまかせて、刀剣を処理させることとした。三菱製鋼は九月まで半年ほどの間に、約三〇万本の刀をスクラップにした。しかし、それは、とても採算が取れる仕事ではなかった。そこで三菱製鋼は作業の打ち切りを申し出て、スクラップ化は中止された。その後は大量の刀剣が船に積まれ海中に投棄された、ともいわれる。赤羽で廃棄をまぬがれた数十万本は、東京国立博物館によって調査が行われた。そのうち美術品として選別された約五五〇〇本の刀剣が、一九四七年、同博物館に引き渡され「赤羽刀」と呼ばれて、保管されることになった。』と述べている。
読者は、この著者が引用した資料の誤に気づくはずである。つまり、赤羽に集められたのは約三〇万本である(一説には58万本ともいう)。三菱製鋼が切断した本数は確実ではないが、刀が容易に切断出来ないので一本宛の切断料の値上を打診した事実があると聞いている。おそらく、切断方法はシャーリングの方法であろうが、刀は粘くて機械の台が破損するとの事であった。さらに、誤としては、引用の文からは本数が合わない。また、スクラップにされたのは審査後のことである。
集まっていたのが四〇万本、スクラップ化・投棄したのが三〇万本、破棄をまぬがれたのが数十万本では、どうしても計算が合わない。選別されたのが五五〇〇本というのはほぼ事実。そして、国博によって調査されたのも正確には誤で、数十万本というのも重複である事は明白。一九四七年(昭和二十二年)に上野の国立博物館に引き渡されたというのも事実と違う。これについては本サイトで既述済。正確には米軍が早朝に放り出していったのを国博の中に運び込んだというのが事実。したがって、この時の受領書(正確な本数)はない。
以上であるが、この本の著者は書中でも述べているが、その内容は朝日新聞等のマスコミ報道からの引用であろうが、何といっても刀についての門外漢、素人の悲しさ。全く当時の事、つまり赤羽刀の存在についての大局的捉え方は、刀は近代日本には不要という感が強く感じられる。ちょっと調べれば、数量も?という事がわかったはず。まさに、進歩的知識人の思想が事実よりも全面ににじみ出ている。秀吉の刀狩などと一緒にされては迷惑千万であり、日本の文化を全く理解しようとしない米兵と同次元であるといっても過言ではない。
ただ、こうした本によってさえ、日刀保の説明している赤羽刀への見解が如何に自分勝手であるかがわかる。
こうした点については、平成23年1月から私が『刀剣と歴史』誌(日本刀剣保存会刊)に書いた『終戦直後の刀の法制度について』というのを読んでいただければ真実がわかる。この文は昭和二十一年十月の内務省による文書を引用して空白の時間を埋めたもので、殆んど語られる事のなかった赤羽刀の撰別と、その線上にある登録制度への始まりがある。
終戦後、刀を救ったのが本間・佐藤氏であったという神話は全くの虚偽である事を認識しておくべきである。
因みに私が述べたのは、この二人のみが救ったのではないという意味であり、他にも尽力した人達はいるが、原動力で一番の立役者は有末機関の浦 茂(うら しげる)氏である。日刀保は有末機関のみならず、浦氏の名前も一度たりとも公表してはいないが、事実は事実であり、根拠と証拠のない間違った公表はしないでほしい。
(文責・中原信夫)