INTELLIGENCE
♯ 言訳
Copywritting by Nobuo Nakahara
世の中にも色々と言訳があるが、刀剣社会にも言訳がある。当り前であって、人間の構成する社会であるから。
私が独立して間もない頃、知人の研職S氏が、私を神奈川県大磯の永山光幹氏の所へ連れて行くと言うので、誘いに乗って訪れた。この時の事は『とうえん』に掲載したと思うので、正確な年月日はそれで確かめていただきたい。
まず、永山氏宅に行って挨拶をした後、当時盛況であった研磨教習所を訪れ、後に食事を皆と一緒にいただいた記憶がある。その折、永山氏は私に「私も村上先生のもとに参じたかったが、多くの弟子がいて、各々の事情もあり村上先生と行動を共に出来なかった・・・」と言われたが、私は、「それは村上先生との間で起こった事で、私には全く関係はないので・・・」とキッパリと話を断った。永山氏は意外な顔をされたようであったが、二度と私はその事に触れなかった。
村上先生と行動を共にとか、参じたかったとは、解説しなければわからないので、一応、解説しておく。
昭和四十九年三月末をもって、村上先生は日刀保理事・常任審査員を辞され、自らが主催する「刀苑社」の地方審査に臨まれた。この時点から、日刀保の村上先生への圧力は一段と強くなり、同じ本阿弥光遜門人である研師にも当然、「村上に組みするな、やったらわかっているな・・・」という一種の恫喝である。
こんな事は日刀保はやっていないと日刀保は言うかもしれないが、事実である。当然、永山氏はに多くの若い門人がいて、コンクールにも出品しなければいけない。したがって、いい賞はやらないという趣旨の恫喝であり、実際、困ったのが永山氏であろう。そうした経過を知らないと前述の内容は全く理解出来ないのである。
私は別にそうした事を詮義立てるつもりでS氏の誘いに乗ったのでもなく、単に表敬訪問という点と、永山氏の腕の良さを知っていたので、どんな人なのか、また、教習所を一度見たかっただけである。当時、村上先生が保証人になった人もまだ教習所にいるし、私も学生時に、永山研磨教習所に入ろうかと真剣に考えた事もあった。しかし、大学卒業直後に村上先生の所へ入れてもらったが、まさにその時に村上先生は一大決断をされて日刀保を辞されたのである。
私はもっと早く永山氏が人間国宝になって然るべきであったと思っている。高技術を持っての人間国宝。その人間国宝に一番ふさわしく正直な人であると思われる人が最後で、一番ゴマスリでふさわしくないのが最初?。これはどちら側、つまり文化庁と本人と私のどちらの言訳になるのかなあ・・・。
(文責・中原信夫)