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INTELLIGENCE

♯ 師の入札

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

先日、調べたい事があり、戦前の中央刀剣会発行の『刀剣会誌』昭和十二年九月・十月を見ていたら、面白い書込があったので紹介しておく。

私の師・村上孝介先生は本阿弥光遜の日本刀研究会に参加出席し始められたのが昭和七年の後半頃と聞いているが、詳しくは『刀苑』の刀・人・時の欄に書いてあったと思う。その入門直後は、まるっきり入札鑑定では点数をとれず、もう刀をやめようかと思った事もあると弱音をはかれたと、師の次女の方から聞いた事もある。確か入門直後に刀剣書を行き当たりばったり開けた頁の刀工に入れたら点数が入り、講評の時に説明しろと強要され、困惑した旨の話がある。その時の日本刀研究会の判者は田中時彦氏であったと聞いている。

 

さて、入門後三年で奥傳をとられた師は、中央刀剣会や築地刀剣会や保存会等によく出席されたが、その中央刀剣会での昭和十二年九月と十月の入札内容が、『刀剣会誌』の講評記事の頁の上に師の自筆(万年筆)で書いてあった(A)。九月の講評は葆光(神津伯)で十月は小倉惣右衛門(網屋)である。

 

まず、九月分から、一号刀は手掻包利で、柾目肌、直刃に小乱交じり沸匂厚く、鋩子掃掛。これに対し、初札は越中守正俊で“時代違通”、二札目が“大和志津”で能候、三札目で手掻包吉で同然となった(B)。

二号刀は備前倫光(応安年号)、小のたれがかった五の目で匂出来、移がありすぐ備前とわかるとの講評であるが、初札は桃川長吉で“イヤ”。二札目が大宮盛景で“準同然”。

三号は之定の短刀。地鉄細やかで美しく直刃で匂深く、鋩子倒れる。一見高作に見える。初札 新藤五国広でイヤ、二札目 大和則長でイヤ、三札目で之定で当り。新藤五国光ではなく、新藤五国広への入札に意味があるのかもしれない。

四号刀は村正の短刀、菖蒲造、地鉄少し柾心あり、小のたれに五の目で匂締る。刃文表裏揃う。初札で当り(C)。

五号刀は備前勝光の短刀。地肌は小板目よくつみ、直刃で匂出来、重ね非常に厚く、彫物あり。初札 平安城長吉でイヤ、二札目 祐定で同然(D)。

 

この入札で面白いのは一号刀である。師は新刀とみて、越中守正俊の柾目出来とみられたのであろう。刃文が乱れていたり、崩れていたら出羽大掾国路とでも入札された筈。ただし、二札目の大和志津は戦前は無銘の出品刀も多く、それを疑られたのであろうが、三札目に手掻といかれたのはおそらく二札目で気付かれていたが、一号刀でもあり、ある程度出品者側への敬意もあったのかもしれない。ただし、この一号刀は私は経眼していないので、あくまでも想像推測である。

二号は地肌に少し流れた所か地移が不鮮明であった可能性も少し考えられるが、ちょっと不可解。流れた肌を綾杉肌とみて、桃川長吉への入札ともとれる。

三号の之定はよく引っかかるケースであり、これは同情の余地が大いにある。講評では倒れた鋩子で返の焼幅が広く品位に欠けるとあり、新藤五とか来とか粟田口には決してないとの講評は間違っているとしか私には考えられない。こうした神津伯のような考え方、表現方法が、今だに尾を引きずっている。倒れた鋩子は本場物にはないが、相州上位(新藤五・行光等)だけにはあると光遜も説くが、行光・新藤五にあって、特例事項としているが、それが大問題である。もっとも、こうした作例は別次元で論じる必要がある事も事実。返の焼幅が広いのを下品というのは勝手だが、鋩子の深さと返と先反は連動していて、健全度をみる見所。こうした神津伯の講評はガラパゴス講評であり、明らかに根拠がないのである。それを証拠に藤代義雄は戦前からこうした点に触れて、卓見を書いている。なお、十月号での成績は五本中、四本までは初札で当りか同然であるし、一本は二札目で同然であります。
(文責・中原信夫)

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