INTELLIGENCE
♯ 本阿弥家と豪商・三井家
Copywritting by Nobuo Nakahara
先稿で本阿弥光悦の鷹ヶ峰・光悦村地図について少し述べたのを機会に、表題の如く本阿弥家(分家)と三井家との関連について少し書いておきたい。
去る平成二十一年に『本阿弥家の人々』と題して福永酔劍先生の原稿を、私が編者として自費出版したが、それから少し経った頃、千葉市在住の方から問合があった。というのは、その方は本阿弥光貞の縁につながるかもしれない家系という事でのお尋ねである。本阿弥光貞は有名な『光山押型』の真の著者であるが、その千葉市在住の方の質問の中に、豪商・三井家と本阿弥家(分家)に交流があると教えられたので、早速、その方の教示に従って『三井家文化人名録』((財)三井文庫・平成十四年刊)を購入し調べた所、今まで、全く知らなかった事実が残されていた。
三井家に関しては今まで、あまり興味もないので気にもしなかったが、この本をきっかけに十一家の連家があり、その一つに「家原家」がある。同書には家原家の説明に「三井の連家に加わる前から、禁裡・仙洞御所の刀剣清拭御用の家柄」とされている。その三井連家中の家原家初代は政俊(喜兵衛)で宝永四年(一七〇七)京都にて家原政名の次男として生、宝暦四年(一七五四)没。
家原家は先祖が織田信長に仕え、和泉国を領有し、家原城に居住。家原政藤(政俊の祖父)は茶人として名を残し、千利休作・園城寺竹花入を所持、刀剣、墨跡、蒔絵の目利として有名とある。その政藤(自仙)の妻は本阿弥光甫の娘とある。光甫は光悦の養子・光瑳の子(長男)で、慶長六年生、天和二年没。先妻は妙了(本阿弥光室娘)、後妻妙得。多くの子女があったとされるが、その一人が家原政藤の妻となっていた。
さて、その家原家五代・政由は「十九歳の文化八年八月禁裏御所より御剣御清見習を申付られ、上京中の本阿弥市十郎(民生・光的系八代目か)に同道して御所に上る」とされている。また、「文政六年八月禁裏御所と仙洞御所の御剣清御用を、京着の本阿弥政之丞(光栄・光意系十一代か)と共に勤める。同十年にも両御所の御剣清御用を本阿弥源蔵(光以・光味系九代目か)・比喜多三衛門と共に勤める。」とある。
家原家八代・政春は「天保十年十月禁裏御所御剣御清拭御用を拝命する。天保十四年八月、剣御清拭御用を拝命し、本阿弥七郎右衛門(光白・光味系十代か)・比喜多権兵衛と共に、四振の研を済ます」となっている。
この様な記述に接して、あらためて『光悦』(大正五年刊・森田清之助編)を調べたら、同書に所収の『拾葉筆記』に「おなし人 比喜多盛澄下立売大文字屋権兵衛の物語に、本阿弥光悦は近衛三藐院信尹公に書を学びたりしが・・・(中略)・・・盛澄が祖父母は光悦が孫なり、家原喜兵衛(政俊か)、比喜多の両家は本阿弥によしみある故に、今も内裏の御剣を本阿弥が清め奉るとき、両家したがひてたすけ侍るなり」とあった。
これで『三井家文化人名録』の記述と一致することになる。こうした本阿弥家と三井家との接点は、第一に茶道という事になる。
『三井家文化人名録』には、三井連家の一つ、松阪家初代・三井孝賢(了栄)について「宝永二年 京都在住の本阿弥九右衛門三男高邁を養子とし、翌年長女“もと”と結婚させる。高邁は、高利(三井家祖・元和八年生・元禄七年没)の六男・高好妻の弟でもあり、養父高利と本阿弥家は年来懇意の間柄にあった」とある。この本阿弥九右衛門が本阿弥久右衛門であるなら、本阿弥光貞同人となり、この高邁は光貞の子という事になるが、本阿弥光貞は宝永六年没である。しかし、前述の千葉市在住の方が先祖とされるこの光貞は元禄十一年十二月没、本阿弥九右衛門、戒名は忠辰院光貞日利となっているが、いかなる事情かとお尋ねになったのが本稿のキッカケである。また、この九右衛門光貞には娘一人とその弟(栄助)等がいて、その栄助の子孫であるとの御申越であった。
そこで私も今一度調べたが、本阿弥光貞の没年戒名は、御申越のものとは違っていたのであるが、いづれにしても何らかの不明な点や取違えがあっても全く不思議ではないほど、本阿弥家の事は不明な点が多くある。
しかし、豪商・三井家と本阿弥家との関係は不勉強とはいえ、私は全く知らなかったし、その点については今までに全く聞いた事もなかった。
因みに、三井家の人々の中には刀剣の趣味を持った人々もいたようである事も『三井家文化人名録』に記載されている。また、戦後、財閥解体によって、三井家の一族から大量の刀が市中に売却されたと聞いている。
(文責・中原信夫)