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INTELLIGENCE

♯ 大燈国師の似せ墨跡

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

先日、本サイトに書いた光悦村(鷹ヶ峰)について、少し気なる事があり、掲載後に『光悦の手紙』(増田孝氏著・河出書房新社・昭和五十五年刊)を本サイト編集者の方にお願いして入手していただいた。その気になる点については期待した結果はほとんどなかったが、著者は光悦の事について興味深い論を展開されていた。増田氏といえばTV東京「何でも鑑定団」でよく登場される方としか認識していないが、同書の中で織田有楽斉長益についての解説中に下の記述があった。

“『本光国師日記』にもうかがえるところであるが、元和二年(一六一六)ころから有楽と金地院崇伝との往来はしきりとなった。・・・〈中略〉・・・この年はまた有楽にとって忘れ難い事件のあった年である。有名な大燈国師の似せ墨跡事件である。有楽が大徳寺の松岳紹長から買った大燈国師(宗峰妙超)の墨跡が偽物らしいということで訴訟に発展したが、結局、松岳が偽物をつくったとして大徳寺を追われたという一件である。”

 

この様な事件を私は知らなかったが、さもありなんという感が強い。大燈国師の墨跡といえば、茶道に全く興味のない私にしても、超高価なものである事ぐらいは知っている。この時代に既に墨跡の偽物を作っているのであるから、何も刀には偽物が多いという一般の批判は冤罪と言うしかない。刀以外の古美術品には膨大な偽物が存在するのが事実であるのに、どうして刀にだけ偽物が多いとされるのか、不分明であり、不満でもある。因みに、私は茶道具を見るのは好きである。

拙宅の極小で、急ごしらえの床間にも、色々と掛軸をかけて一応楽しんでいる。私にとっては、これで満足であり、それしか出来ない。有楽斉が大燈国師の墨跡を買ったのは床間にかけて茶席に用いるためであったろうが、高価な墨跡を床間にかけたからといって、どういうものではない。床間の掛物は言ってみれば一つのアクセントである筈。さらに言うなら、“わび”た茶室に高価な掛物は基本的、本質的にそぐわない。

このように書くと茶道の家元は怒るだろうが、本来、茶は楽しく飲むためのものである。それを、時の為政者は密談の場所にうまくカムフラージュした。

千利休の少し前より、そうした形跡がほとんどであり、茶を楽しむだけのものという目的は少しもみられないし、裏を返せば人脈づくりでもあった筈。

 

以上は私の偏見かもしれないが、私は茶道は好まないが、茶道具を見るのは好きである。ついでに、茶道家元のクセのある下手な墨跡を床間にかけている神経にも?である。それにしても本阿弥家代々にしても茶道人の字体にしてもクセがありすぎる!?・・・。禅僧の高価な墨跡を掛けても、見た人が悟りを開いたりする事はない。茶道が上手になるわけでもないのに・・・。単なる見得か、虚栄心か・・・。
(文責・中原信夫)

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