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INTELLIGENCE

♯ 本阿弥光悦について再度

Copywritting by Nobuo Nakahara

以前、本サイトに本阿弥光悦の鷹ヶ峰拝領や古地図について、従来とは違う考え方を述べたが、後日、『光悦の手紙』(増田孝氏著・昭和五十五年・河出書房新社刊)を入手して読んでみると、増田氏の鋭い洞察力で古地図や光悦村について、また、光悦自身への評価を展開されていた。この著書はかなり以前でもあり、私の不勉強というか、この著書が入手出来なかったので、全く知らなかっただけであり、何とも恥入るばかりであるが、前述のサイトで述べた事を読まれて、全く未知の方と少しの間ではあったが、直接面談も出来てたいへん得る点があった。

 

さて、前述のサイトにも少し触れたが、刀関係以外の方面の方々、失礼だが増田氏をも含めて、光悦から本阿弥家を見ておられる気味がどうしても強いのである。そうしなければ、そうして当り前という気になる程、実は本阿弥家全般の事も不明な点が極めて多い。

確かに光悦は偉才ではあるが、何といっても本阿弥本家からの考え方として光悦を捉えないと全体の流れが本末転倒になりかねないのである。つまり、分家は研磨が家業であるという事である。ただ、私も含めて、刀社会の方々が一番見落としていた大きな事実がある。片岡家の出自と地位であるが、従来からの見方よりも、もっと大きな力であったのである。

つまり、光悦の父・光二は片岡家出身である。光二が本阿弥本家に迎えられながら、結局は分家した事。これが光悦を考える上でのポイントであろう。さらに光悦の次代の光瑳も片岡家出身である。どうも、本阿弥光二が不明確というか、曖昧な理由で分家した背景に、今となって私は片岡家の大きな「力」を感じざるを得ない。

 

片岡家は失礼ながら本阿弥とは較べようもない名流であろう。室町中期の京都所司代・多賀豊後守高忠の流れで近江国京極家の重臣ともされるが、これが本当なら、文化的にも地位的にも前述の結論になる。

それを象徴するのに、既述済であるが名物“有楽来国光”(現・国宝)の金二重鎺に刻まれた銘字「片岡六左衛門」という事実である。鎺に刻まれた銘は、確実に鎺製作時における有楽来国光の所持者を表している。この有楽来国光は豊臣秀頼の御物で、織田有楽斉長益が拝領となっているから、およそ大坂落城の少し前、大坂冬の陣の後であろう。長益と秀頼は近い縁になる事は承知の事であろう。

問題はこの片岡六左衛門は高価な名物を所持していたのである。その時期は、有楽斉長益の死後(元和七年)か、可能性は少ないが豊臣秀頼御物つまり大坂御物となる少し前に所持していたのか。そのいずれかであろう。いずれにしても慶長前後には片岡家には、名物を買い、おそらく金二重鎺(埋忠製か)を作らせる莫大な財力があったという事。そして、有楽斉と片岡家・本阿弥家(殊に光二・光悦)との共通項は“茶道”である事は明白。

ならば、本阿弥光刹に婿入りして、何らかの事情で別家をした本阿弥光二は実家の意向と財力、そして名流としての後楯から何の未練もなく分家をしたと考えれば、今までの?が解決できると思われる。しかし、私にとって片岡家、現在も続いているかと思うが、この片岡家をもっと調査する事が不可欠となるが、私にはとても出来ないので、この辺を調査していられる方、もしくは現片岡家からの資料の提供しか途はないように感じるので、是非お願いできればと思っている。

 

さて、本阿弥光悦の体にはこうした名流のDNAが十分にあるのであり、『にぎわい草』に記述されている光悦の人為などは十分に斟酌しなければいけないが、それでも私は、増田孝氏の主張や、ひいては大正頃からの“光悦観”を作った森田清之助氏を批判するつもりは毛頭ないが、京(王城)に残っていた僅かな一族に語った最後の一節、「ゆめやめ王城の地を離るるべからず・・・」といった文言に光悦の本音中の本音を感じる。権力に尾っぽをふるな、ふってたまるかという意味あいもあろう。

つまり、徳川家康であろうが、豊臣秀吉であろが江戸幕府であろうが、成り上り者の最たる例。そんな人間に文化や美術・芸術の理解(結果的に)が出来るか、わかってたまるかという本音があると思われてならない。いずれにしても、晩年の茶道三昧の日々に、偉才として当時の世相の流れへの消極的反抗と現実逃避の気分を感じざるを得ない。

以上、各方面に失礼な表現になったが、くれぐれもご容赦いただきたい。
(文責・中原信夫 平成三十年一月九日)

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