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INTELLIGENCE

♯ 粟田口刀工と鉄

Copywritting by Nobuo Nakahara

私事で恐縮ではあるが、私は考古学が好きであった。同志社大学文学部に在籍中、三回生から考古学のゼミを受講していたが、このゼミには森浩一先生(当時は助教授だった?)が講師であった。他のゼミはズルを決めた事が多かった不良学生だったが、この森先生のゼミは皆勤?した。確か、三回生の時(昭和四十七年頃か)の講義で、当時の同志社大学・新町校舎の一室で森先生が焼けた分厚い陶片のようなものを私達学生に示されて、「君達、これは何の出土品と思いますか・・・」と言われたので、私は「タタラ」の炉の破片ですかと咄嗟に答えた。すると森先生はビックリして声を詰まらせたような表情をされ、「これは滋賀県・琵琶湖北部辺から出土した野タタラ炉の破片で、中世期と思われる・・・」と言われたと記憶する。この情景は約50年程前のものだが、私の目に強く焼き付いている。

この琵琶湖北部の中世の野タタラという事にずっと興味を持っていたが、この地域の鉄を粟田口一派は使っていたのではないかという気がしてならない。この地域は中国山脈のような大規模タタラは出来ないはずで、小規模、そしてある時代に消滅していると考えられ、粟田口一派も突如(という表現が正しいか否かは?)消滅しているのと、何となく符合する気がするのである。

 

さて、粟田口一派を山城刀工とするというか、京の刀工と分類するのは間違っている。「京」とは「京洛内」を指すもので、粟田口は「洛外」である。今の三条通を東へ行くと鴨川を渡る少し前から正確には洛外となる。それから近江国(東国)へ通じる唯一の街道の途中に粟田口は地名として残っている。つまり、琵琶湖北部の野タタラで生産された鉄が、京に入る途中に粟田口はある。

室町期からの刀の目利本にも、山城国という感覚はなく、あくまでも「京」物という項から始まり、その筆頭は「来」である。来は京洛内であり、粟田口には治安の良くないとされた洛外の刀工群。さて、刀工にとって使用する鉄の質と量は生命綱である。その使い慣れた鉄が生産されないと休業せざるを得ないし、別質の鉄を使うと、鍛錬や淬刃時に大きな変化が出て、品質管理が出来にくくなる。つまり、昔から鉄の生産と密接なのが刀工。今でいう”レアメタル“と同じであろう。

 

したがって、京物を山城物として普及させたのは明治末期以降に唱えられた五ヶ傳であり、京洛内も洛外も一緒くたにしてしまった傾向が強いのである。五ヶ傳は旧国名を冠して区別した点については、確かに覚えやすいが、反面、位列については図らずも逆の評価を招来してしまった結果になった。

もちろん、琵琶湖北部辺の鉄の推測は私見に過ぎないが、この点では考古学と連携して情報公開をやるべきであろう。それによって思わぬ刀工の盛衰との関連性があぶり出されるのではと期待している。刀社会はそういう意味では閉鎖的であって、これからの研究者に、この点を特にお願いしたいのである。宇宙からの探査衛星情報を駆使すれば、タタラ跡や地層の種別と痕跡はすぐに解析できると思うが・・・。

 

さて、考古学社会では森先生は有名であったと聞くし、口癖は「出土した遺物からのみ考える」という意味の態度を貫かれたようであり、学閥による偏った考察はされなかったと聞く。つまり実物第一主義であったと思う。その森先生の名言(と私は思うが・・・)が一つある。

「今の学生はすぐにコピーをとる。それでは頭に入らない。自分の手で書きなさい。そうすれば覚えるから・・・」である。今とは私が大学生の頃である。

私は本当に考古学方面に行きたかったが、考古学では飯は喰えないと自分勝手に思い込み、その結果、さらに飯の喰えない刀社会にドップリとつかってしまった。でも性に合っていたのかも。水を得た魚の如し・・・であろうか。

以上、詰まらない話で失礼しました。
(文責・中原信夫 平成三十年八月六日)

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