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INTELLIGENCE

♮ 肥前刀〜その2

Copywritting by Nobuo Nakahara

忠吉という刀工は本当に大した刀工であると思います。近世の区分ではありますが、古刀から新刀に移る時期・つまり“新古境”(しんこさかい)と俗称される時期を生き、そして、他に例のない分業制の大工房を創始したのですから偉大としか言えません。

 

古刀から新刀と簡単に私達は言いますが、別の次元でいえば、刀自体が武器からステータスシンボルへの移行であって、様々な難題にぶつかります。それを逆手にとって美事な殖産興業にまで持っていった中心人物であり、その裏に誰か判りませんが、鍋島藩の役人の知恵者がいたという事でなければ、この大事業と成果は生まれなかったと考えられます。当然、忠吉はそうした大工房システムには知識は少なかった筈で、鍋島藩の役人が考えぬいてそうしたシステムを順次整備し作り上げていったと思われるのです。その完成時期が近江大掾忠広の時でしょう。そして、そのシステムについていうと、伊万里焼が古いのか、肥前刀工房システムが古いのかという大問題にあたってしまうのです。未確認ですが、伊万里焼が従来定説とされる朝鮮渡来の陶工による創始説を覆す実物資料があるといいますが、いづれにしても慶長頃を大幅に遡る年代ではないと思われます。それなら、この肥前刀工房システムの基は、日本か又は外国の情報からのヒントを得たのかという二者択一の考え方となります。

 

日本の例となれば、唯一つです。それは末関の刀工群でしょう。今一つ外国の例となればおそらく東印度会社経由の外国貿易上から知り得た情報の可能性もありますが、当時の欧州にしても産業革命以前ですから全く考えられません。私は美濃国・末関刀工群の生産体制と流通機構をヒントにした、全く別次元的発想であると考えた方が、現在はベターかと思っています。

 

大工房制での作刀というと、品質が劣るという考え方を一般にはされるかも知れませんが、全く逆です。作刀の諸工程で一番上手で適した職人を各々に配置したら、一番最高の作刀が出来上がるのです。いずれにしても、肥前刀製作システムは欧州の産業革命より以前のシステムとして、画期的と思いますが、皆様や肥前刀専門家の、そして肥前郷土歴史家の方々の指摘を待つものです。

 

さて、産業革命と述べましたが、私の推測はこうです。システム工房において、鉄を鍛えるのには三つの問題があります。つまり、大量の刀を製作するには大量の和鋼が必要であり、それをどこから順調に調達するかです。第二に、大量に鍛錬するには多くの先手がいることになりますが、それをどの様に確保するか。第三に、極力人件費を安価にコントロールするかであって、これは現代の企業でも重大問題です。人数を多くすれば製品の質がバラつきやすくなります。これを一定にコントロールしなければ、即、売れなくなる。つまり、リコールが一番恐ろしいのです。因みに、古刀の備前刀にも肥前刀にも殆ど全くリコールは起こらなかったと考えるべきでしょう。古刀の本場は備前長舩。新刀以降は肥前であるとする理由がそこにあるのです。

 

さて、その二と三についてですが、それを解決する上手い方法があります。それは水力を利用する事で、佐賀という土地柄というか、地理的に見れば佐賀は低地が多いので、北方の嘉瀬川系から水を引いてきて、貯水池や堰で水量をコントロールすれば、水車等の力で一定の力を上手く変換して上下運動にすれば、鍛錬や火造等は可能でしょう。その他、舞錐(ドリル)も使えるし、丸砥も自在に使えるように出来ます。それなら二と三は、ほぼ解決出来ると推測しています。また、鍛錬は暑い時期には出来ないので、十二ヶ月ぶっ通しは出来ない点も考えなければ、“歩止(ぶどまり)”が悪くなります。それも、この方法なら効率的に対処出来るのではないでしょうか。
(文責 中原信夫)

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