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♮ 一振の追憶 その4(肥前住播磨大掾藤原忠国)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

今回は肥前刀を紹介したいと思います。肥前刀は本サイトのみならず、拙著『刀の鑑賞』でも大なり小なり触れたように、新刀から新々刀の刀姿の変遷のモデルとしています。いや、そうせざるを得ないし、そうする可きなのです。その理由は既述の通りです。
さて、今回は初代忠国の紹介ですが、本刀は、肥前刀の掟とされる特徴とは少々相違しているのです。それについては後述したいと思います。

 

刀銘
肥前住播磨大掾藤原忠国

刃長/二尺一寸一分八厘、反/五分七厘、本造、行の棟、中心は生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
小板目肌が殊によく詰み精美。鎬地の棟寄りは柾目肌。
[刃文]
小沸出来の五の目丁字乱で、刃幅が殊に深く、刃中に足が入り、一定の所でプッツリと切れて砂流・金筋が頻りに所作する。総体に表裏が揃い心となり、飛焼が少し出る。
[鋩子]
横手辺で大きく焼込み、それから上は直状となって帯状となり、深い鋩子となる。返は深く、棟焼が下まで出る。

肥前刀というと、従来からの概念からは、姿・地・刃に過ぎるものがなく、尋常なものが殆どという考え方でした。しかし、本刀はそうした概念から大きく外れる作風であり、それが初代忠国の作にまま見られるのですが、中でも本刀は刃文(刃幅)の深さについては大坂新刀を凌ぐものでしょう。いずれにしても、従来からの肥前刀に対する概念が正しいか否か、または不足かは考え方・見方が別れる点も当然出てきます。

 

一般的に言って、先輩達からは“焼幅が広く(深く)て良い刀だ・・・”というような趣旨の発言をお聞きになった事があると思いますが、その理由について明確な説明は殆んどなされていません。ただ単に焼幅が広いというだけで名品・名刀とするのは片手落というものです。

つまり、焼幅が広くなると、淬刃の折に刃切をおこす確率が一段と高くなるのです。本刀は刃切などの決定的なキズを伴うことなく、そして匂口に叢な状態もなく、焼入(淬刃)していることは、まさに高技術というしかありません。したがって、この考え方を伝えていない、否、伝えない、伝えられないままに“焼幅の広い刀は良い・・・”とのみ言い伝えられたと考えています。

 

では本刀が肥前刀の概念、つまり造込における特異な点はどこなのか。肥前刀で二尺を超えるものは太刀銘に切るとされていますが、これには違反していません。では、中心の棟の肉置については二尺を超えれば小肉、つまり棟が少し蒲鉾の背中の様に小肉がついて丸目になるのが常ですが、本刀には小肉がつけられておらず、角(平面状)となっています。

これは近年、特に細かく区別されるようになってきましたが、肥前の忠吉・忠広と銘した本家をはじめ、傍系に至るまで違反は殆どないとされています。

しかし、どの社会にも極少数ながらこれに違反する刀工がいるとされていて、その典型が初代忠国とされています。したがって、本刀は従来からの特徴からいうと?がつく作刀なのですが、前述の理由から本刀は例外の作刀であるという事になるのです。

 

この肥前刀における中心の棟の肉置については、本サイト(刀装具の研究)での柄下地の欄で、全くの推測ではありますがと断って、私見を述べてありますので参照してください。この私の推測に是非共、読者各位の意見を頂ければと思います。

それから、肥前刀の二尺を超える作には何故に太刀銘にするのか、これについては全く手も足も出ません。初代忠吉の作刀の最初(慶長五年紀)から既に太刀銘になっているのですから、その理由(特徴と掟)については、二代忠広以降になって成立したのではないと言えます。

初代忠吉がどうして最初から太刀銘のみを施したのか、これが最大の謎なのです。初代忠吉と同時期の刀工で太刀銘に切った刀工はないと言ってもよいでしょう。それだけに何らか特別な理由があったと解釈せざるを得ないのですが・・・。

脇指、短刀も全て太刀銘(指裏の銘)にはなっていません。本当に悔しいのですが全くお手上げです。
(文責・中原信夫)

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