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♮ 一振の追憶 その8(無銘 政重)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀 無銘
政重(花押) 一之胴両度
        大かりがね一度 圡壇入(金象嵌)
 
 
 
刃長/二尺一寸五分五厘、反/四分弱、本造、丸棟、中心は生で孔は二つ。
 
 
[地肌]
板目肌が総体に流れて柾目状となり、鎬地は柾目肌が強い。
[刃文]
匂出来、弯調に五の目乱、小乱、怒つい乱、尖刃、角張った五の目乱が交じり不整。刃文が表裏揃い心となる。
[鋩子]
直状で少し弯れて、先は小丸で返は少し。棟焼がある。

本刀は生無銘ですが、前回の景平の金象嵌と全く同じものであり、本刀の金象嵌も誠に見事で、全く疑う余地はありません。

また、本刀も脇指(景平)と同じく加州物という作風ですが、この大小に共通するのは、刃区から刃文を焼き始めている点ですが、これは武用のためと思われます。

 

どうして指料の“大”に無銘を撰んだのか。考えられるのは、この“大”の斬味を賞しての事と思われ、その証拠としての截断銘を施したと考えられます。戦国期を生き抜いた本多政重だからこその指料と言えるのではないでしょうか。

この大小の鎺も武用専一の細工ですが、当時からのものか否かは不明です。

 

ではこの本多政重に関していうならば、幼年期は家康の旗本(一番組?と思いますが)であった倉橋長右衛門の養育を受け倉橋長五郎と名乗っていましたが、後は各地に転じ、名前も変えています。

一番有名なのは会津の上杉家々老・直江山城守兼続の娘婿となっていますが、後年、会津を去っています。また、関ヶ原の役では、家康と父と兄がいる本陣へ突っ込んでいます。

 

このように本来なら即、死罪であり、現代ならば絶対に重用しませんが、この頃には人物の力量と才覚を生かして加賀百万石へ付家老として出している点は、見事な幕府の人事であり、人間本来の本当の使い方です。現代のヘッドハンティングなどは、全くバカ気た人間の使い方であり、もっと江戸時代の人間の考え方に学ぶべきでしょう。

また、本多政重は若い時に身を寄せた宇喜多秀家が八丈島へ遠島になってからも、ずっと贈物を続けていたと聞きます。その時は幕府にその旨の願書を出すのですが、幕府の回答は「勝手たるべし」との事。政重公の至誠に満ちた人生観が出ていて、私も少しは見習うべきものであります。

この本多政重公の人生、私は興味津々なのです。正保四年没、六十八歳とされています。
(平成二十八年三月十日 文責・中原信夫)

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