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INTELLIGENCE

♮ 刀の時代区分・その3

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

古刀と新刀の区別について書いてみたので、ちょっと入札鑑定会での判者の回答について私見を述べてみたいと存じます。

 

前稿で堀川国広について触れましたが、国広には天正年紀があり、この天正年紀を鑑定刀に使用しますと、例えば平髙田の入札には何と回答するのでしょうか。国広が新刀刀工として京都住と解釈し固定すれば、平髙田に対しては「時代違イヤ」と回答せざるを得ないのです。しかし、国広は日向国伊東家臣であり、天正年間に伊東家が島津家に攻められて豊後国に伊東満所(マンショ)を守って逃げてきています。三年程、豊後国臼杵近辺にいた後に足利学校に行って、小田原城に入り、北条氏滅亡となり、京都に定住していますから、平髙田刀工との交流、小田原相州刀工とも交流したはず。因みに、関を通って京都に入っていますから、末関刀工とも交流は必ずあるはずです。

この様に国広の足跡からは慶長初頭に京都に定住したとすれば、その刀工人生の大半は末古刀期となり、ややこしくなるのです。

 

その前に、一般的に平髙田、小田原相州、末関と国広が同次元の作位とは絶対に考えませんから、この平髙田の入札にはやはり「時代違イヤ」としますか。では平髙田の鑑定刀に国広と入札すれば「時代違・本国にて通り」と回答するのが親切かつ正確でしょうか。

この様に、詳しく調べていけば、国広と同様のケースは出てくるはずです。つまり、寛永で古刀と新刀を区切れば国広を末古刀に決定・固定出来るのであり、その方が理屈に叶っているのです。

 

入札鑑定会での古刀・新刀の区別も大問題ではありますが、さらに私は次の考え方を提唱しておきたいと思います。それは古刀期を大きく三つの区分に分けるという提唱です。鎌倉時代と吉野朝と室町安土桃山の三つにです。例えば、祐定に長光の入札をすれば現行の回答は「能候」となります。これでは本当の勉強になりません。この様なケースに私の試案回答では「区分違能候」とします。つまり、備前国の中で吉野朝以前に時代を上げろという意味の回答です。

また、長光に対して兼光の入札を想定すると、従来なら「能候」としか回答出来ません。まさか「同然」とは出来ません。「同然」というのは「親子・兄弟・弟子」に対しての位置関係からのもので、長光と兼光では一代飛び越してしまいます。

昔の本阿弥家ではこの様な時には「釣合(つりあい)[にて能候]」という意味の回答をしたと聞きます。勿論、昔からの本阿弥家方式が完璧とは思いませんが、限りなくベストに近いものという事は事実でしょう。従って、私の試案方式をやらない限り、本阿弥家の「釣合」という回答を復活させるしかありません。特に戦後の刀剣界、つまり日刀保主導の社会では、この本阿弥方式に全く毛嫌いに近い拒絶反応を示し、果ては新刀と新々刀をも区別せず、一緒と見なし回答してきたのも事実です。

 

新刀と新々刀を区別しない方式の一大欠陥は江戸と肥前によく表れてきます。初代忠吉に八代忠吉と入札すれば、この方式では単に「能候」となります。本阿弥方式なら「時代違能候」となるのです。肥前ならまだすぐ気付くのですが、水心子正秀に兼重と入札すると「能候」としか回答出来なくなります。しかし、本阿弥方式なら「時代違能候」となり、古刀期に江戸は全く考えられないので江戸新刀の中の誰かという事にすぐに気付きます。要は鑑定刀の製作年代を正確に見究めるのが鑑定会の最大の目的であって、刀工の個名をのみ当てることが目的ではない事に気付いてほしいのです。

 

国広は名工であるという思い込みのみで、思い込ませてきたからボタンの懸違がおこるのです。もっと刀工の真の技倆を正確に判断出来うる様に入札鑑定会や鑑賞会、研究会を指導・育成するべきでしょう。確かに国広には製作年代によって名工の名に恥じない作品もありますし、首を捻る様な作品もある事も事実です。私は国広の全てを凡作とはいっていないことも理解してほしいのです。
(文責・中原信夫)

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