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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その17(和泉守藤原国虎)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

短刀 銘
(菊紋)和泉守藤原国虎

刃長/二尺二寸二分五厘、反/四分八厘、本造、行の棟、中心は約二寸程の磨上、孔は二つ。
 
 
[地肌]
小板目肌よくつみ精美な感じ。
[刃文]
沸匂の深い大五の目乱で弯状となり、焼幅も広く、地に飛焼等も出る。
[鋩子]
弯状となり、先は小丸で返は深く、返先は消える。

根本和泉守国虎は奥州磐城の刀工であり、どちらかというとマイナーな部類に入る刀工の一人です。福永酔劍先生も『日本刀大百科事典』で国虎の系譜について書かれているのですが、その系譜については以前は大坂の井上真改弟子とされていましたが、郷土の人の調査では、二代伊賀守金道の弟子であるという調査結果が十年程前の『刀剣美術』誌に掲載されました。

 

確かに、本刀を見ると二代伊賀守金道系という様な作風ですが、つい最近、井上真改に見紛うような弯刃を経眼しました。したがって、真改門という従来の見方も決して無理ではないように思われます。ただ、そうなると親国貞や真改国貞銘と同じ和泉守という受領銘が少し?となります。また、菊紋についていえば、本刀のそれの形状は三品系とほぼ同じであり、枝菊紋を刻った作例(貞享二年紀)もあるようです。

 

さて問題は鑢目です。本刀には化粧鑢が施されていますが、手持の押型にある元禄十一年紀も同様であり、他書の押型も同様です。

つまり、二代金道に化粧鑢があるかという事になりますが、多分ないと思われますから、二代伊賀守金道弟子という事は全否定は出来ませんが、二代金道門人になる前に既に他刀工の門人となっていた可能性も残されるでしょう。ただ、化粧鑢は当時の流行ですから、国虎がそれを取り入れたとも考えられますが・・・。

ならば国虎の和泉守受領が貞享元年十月とされますから、受領のための二代伊賀守金道への入門というか、大坂の井上真改(真改没年は天和二年)が亡くなってしまったために金道へという事とも解釈出来るでしょう。因みに、国虎は初銘が貞平。万治元年生れ、正徳三年八月没、五十六歳という。

 

さて、今回掲載した押型は、私が昭和五十年秋頃にとったもので不出来な描写であり、今から考えると汗顔の至りですが、押型をとり始めた直後でもあり致し方ありません。また、この押型は故片岡銀作氏がその著書『日本刀随感』(新刀編)に使うので是非とも拝借をと依頼されましたのでお渡ししましたが、もっと上手に仕上げるべきだったと今になって後悔しています。
(文責・中原信夫)

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