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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その40(筑州柳川住鬼塚吉国)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

刀   銘
筑州柳川住鬼塚吉国

刃長/二尺三寸七分五厘、反/六分三厘強、本造、行の棟、中心は磨上(約九分程)、孔は二つ。
 
 
[地肌]
小板目肌がつみ、少し肌立ち心となって、鎬地は柾目肌。
[刃文]
小沸のよくついた直弯調で、二重刃状や匂崩状がよくあらわれ、小足が入る。刃文の谷に帯状の匂口がよくあらわれている。
[鋩子]
直状で深く、帯状の匂口となり、先は中丸風で返は深く横手下。

鬼塚吉国は筑後国柳川住(現・福岡県柳川市)ですが、一般的には、刃文では直刃に「瘤(こぶ)乱」と称する乱が横手下あたりにあるとされて、『掟と特徴』(本阿弥光遜著)にも紹介されています。

本刀にはその様な所作は全くなく、一見して古作に見紛うものですが、帯状の匂口などから、平成28年5月に本刀を拝見した折、すぐに脇肥前ですかと持主の方に申し上げた記憶があります。事実、鬼塚吉国の作風としては肥前刀の臭が強くするものであり、今迄に経眼した作の全てにと言ってよい程、共通したものであり、却って「瘤乱」の典型は少ないのではないかとさえ思います。

因みに、昭和五十年六月刊の『刀苑』に私の拙い押型が掲載されていますが、それは寛永拾七年八月の年紀付であり、珍しく乱刃です。解説文を書かれた村上孝介先生も「直刃が殆んどで乱刃は少ない・・・」とされています。本刀はその後、約40年程経ってつい先年、名古屋の近くで再会しましたが、本当に嬉しかったというか、なつかしかったものです。

 

鬼塚吉国の出自は不明ですが、おそらく肥前に有縁かと思われます。寛永十七年紀以外では未見ながら、慶安三年紀が『鑑刀随録』(小泉久雄著・昭和十二年刊)に所載、そこには「七十七歳作」とありますから、吉国は天正元年頃の出生となります。

前述の年紀の寛永十七年頃といえば、柳川は立花宗茂の治世下ですが、関ヶ原の戦の後、宗茂は慶長六年に柳川を没収された後、奇跡的に元和七年に再び柳川へ帰っていますが、元和七年頃は鬼塚吉国は二十九歳となり、立花宗茂が柳川に帰った時に抱工にしたのか、その前に柳川を治めた田中吉政父子の時代の抱工なのかも未詳です。

また、江戸最初期(慶長八年頃)、田中吉政の治世下の柳川には越前下坂兼先の子(八左衛門)忠親がいて、肥前の初代行広門人とされていますが年代が合いません。忠親には柳川住と刻った作刀を経眼しているので、肥前の行広門人とすると二代行広かもしれません。

いずれにしても、柳川の立花家は武門として有名であり、何人かの抱工がいても何ら不思議ではありません。ちなみに、立花宗茂は戸次(べっき)道雪(通称・立花道雪)の養子で、高橋紹運の長男です。紹運も道雪も共に豊後の大友家の流れです。

 

さて、この鬼塚吉国の作風としては直刃が多いとされ、乱刃も少ないがあるようで、中には大弯乱があります。

造込は本造が多く、長寸の刀や一尺五寸前後の脇指も多いようです。他に平造、長巻直造の脇指もありますが、古作に近い作風を見かけることも度々あり、巧者である事には間違いありません。

したがって、地元の柳川近辺の人達にも今一度、鬼塚吉国を郷土刀として、刀としても見直していただきたいと念願しています。
(文責・中原信夫 平成二十九年四月)

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