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INTELLIGENCE

♮ 一振の追憶 その43(備前国住長舩祐定)

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

〈その二〉

 

刀   銘
永正九年二月日
備前国住長舩祐定

刃長/二尺一寸六分五厘、反/六分強、本造、行の棟、中心は殆んど生で孔は一つ。
 
 
[地肌]
小板目肌がよくつみ極めて精美な肌合となり、鎬地には少し流れ心の肌が交じるが、移心はない。
[刃文]
匂出来、腰の開いた乱に五の目丁子、五の目交じりで少しコズむ。総体に焼幅は広く、特に物打辺は広い。刃中に足、匂崩が所作し、飛焼も出る。
[鋩子]
乱込、全くの一枚で深く、返は深目で横手辺の上迄。物打辺に棟焼が少し出る。

本刀は刀の時代の製作ですが、太刀銘に刻っています。別にかたくなに刻銘を考えてはいないし、新々刀には太刀銘が多くありますし、肥前刀は初代忠吉の最古の年紀(慶長五年)から二尺を超えれば殆んど全て太刀銘に刻っています。

しかし、末備前、特に祐定で太刀銘というのは、本刀の指定書(第11回重要刀剣)に本刀のみという注記があったかと思いますが、確かに指定年月の11回(昭和38年)頃ではそうであったはずと考えられます。だからこそ、珍しい作例としての注記になったと思われます。

 

勿論、太刀銘以外では、作風としても違反するところは全くなく、むしろ健全かつ最上出来といってもよい作であって、流石に早い時期の重刀指定です。ただ、残念なのは伝来が全く不明であり、指定書にも記載がなかったと思いますが、それが残念の極みです。

本刀の名儀人は終戦直後から活躍?した有名な刀剣商であり、日刀保の審査員でもあり目利者。特に新々刀にかけてはその才を十分に評価されてきたとされる人物(故人)です。ならば、本刀の出所・傅来は当然知っていた筈、むしろそれを隠したのかとも勘繰ってしまいがちです。したがって、傅来が伝えられなくなったのは本当に残念です。

 

いずれにしても、珍しい太刀銘の作例はどのような使用方法(拵を含め)であったのでしょうか。前回の与三左衛門尉祐定(脇指)と同じく腰刀としてか、それとも型どおりに考えて太刀として佩いたのか・・・。何とも未解明な点が続々と出てくるのですが、一番最初の拵が残されていたら、少しは解明されたのに・・・とも思いますが、これは絶対に不可能でしょう。

 

さて、従来の刀剣書や考え方では、末備前に関して「俗名・年紀・注文主」がないと、特別注文作とは見なさない考え方をかたくなに踏襲してきましたし、「備前国長舩」とあるのは良くて、「備州長舩」は数打であるとさえ曲解する人達がいます。まさに大きな考え違いであって、備州長船祐定であっても上出来の例は多く存在しています。出来具合を全く認めようとしない頑な態度であり、むしろ俗名・年紀・注文主のある普通出来を溺愛する傾向が強く、まさに滑稽とも言えます。詳しくは拙著を参照してください。
(文責・中原信夫 平成二十九年八月)

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