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INTELLIGENCE

♮ 赤羽刀について

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

終戦後のGHQ統治下において、日本全国各地においても武装解除のため刀が各地で接収没収されたが、その中で米軍(第八方面)の管轄の地域(北海道〜岐阜県)から接収された刀が、東京・赤羽にあった兵器廠宛に送られた。昭和二十一年八月二十四日付の米軍第八軍司令官発日本政府宛覚書に赤羽の米軍兵器供給廠という表現がある。

この赤羽に集まったのは、全く正確ではないが約三十万振というが、もっと多いという情報もある。昭和二十一年六月三日付での勅令(GHQが認め、それを日本政府を通した、天皇陛下の命令)で日本側が刀の審査権と所持許可権を完全に回復。それによって、昭和二十二年五月より七ヶ月間に渡り、この赤羽に集められた刀の鑑定審査のため、二十人が当番制で審査した。審査といっても、二人の審査員が向かい合って机の前に座り、流れ作業で、残す、残さないという作業状態であったと師・村上先生は発言されている。

 

この審査で一番出番回数が多いのは佐藤貫一(48回)、近藤鶴堂(48回)、山田英(34回)、宮形光盧(27回)、小松邦芳(24回)、村上孝介(21回)などで、本間順治は(8回)となっている。この審査で残された約五千振(所謂、赤羽刀)が、昭和二十二年十二月一日早朝に東京帝室博物館(当時)の門前におろされた。それらは同博物館地下倉庫へ収められたが、昭和二十四年四月に国家地方警察本部の名で『進駐軍より返還せられた刀剣類作者別分類目録』(ガリ版刷・353頁)が出され、当時の主要な警察署に備えられて、返還申出のための照合に使われた。昭和三十年代までに旧所有者が判明した一一〇〇振が返還された(文化庁)。平成七年・議員立法により、赤羽刀処理の法律が施行。施行前に官報掲載され、七振が返還され、残りは国有化。そして平成十年、三千二百九振は譲与申請を受けた全国の博物館・美術館に譲与された。

 

以上、簡単な経緯であるが、まず、赤羽刀の本数であるが、当時の状況から正確な本数の確定は無理である。ただ、処分対象になった刀の断截作業を引受けた旧・軍需工場の例もあり、おそらく三十万振は降らないし、その審査方法と期間からも、当初発表の数万振ではなかったことは確実である。そして、帝室博物館門前におろされた件であるが、当時の国博技官・辻本直男は米軍が突然早朝にやって来て、打ち棄てていったと証言している。そして、この赤羽刀(国博へ収納)は正確に法律的には遺失物扱であると同氏が述べている。所有者不明の代物であるからである。しかし、終戦直後は日本政府の統治ではなく、占領下である。以後、この赤羽刀の処理は国の政策で度々難行した、というのは、処理しようとしても、当時の文部省、通産省、大蔵省などがお互いに対立して仲々決着しない。

昭和五十年〜六十年にかけて永田町刀剣会なる会があり国会議員(刀に一応趣味のある?)の集合であったが、これも決定打を打ち出せず、そのままの状態が続き、平成七年に国会議員であり、日刀保会長でもあった山中貞則による議員立法で片付けた。これには裏がある。つまり、急速に立法化が出来たのは本間順治が平成三年没となり、そして赤羽で審査員の最後の生残りであった平井松葉が没した。これで全て昭和二十二年に赤羽刀を目撃した証人(証言する資格のある人物)はいなくなったから、急速に動いたのである。当時の日刀保会長・山中貞則の手柄ではない。

 

ただ、この赤羽兵器廠で七ヶ月に渡り審査が行われた際に、拵から外された貴金属類が大型バケツ数杯あったとされ、その行方も全く不明。これらは日刀保に下げ渡されたはず。この件については村上先生からよく聞かされているし、辻本直男技官も公的には一旦認めたにも拘らず、どういう訳か本間順治の意向を汲んでその証言を後に撤回している。
(敬称略)
(文責・中原信夫 令和元年九月十一日)

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