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+ 長州国高の大小鐔

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

世上、大小鐔というのは、まま見かけるのですが、極論すると取り合わせが多くあると思われ、同じ意味では小柄・笄・目貫などを各々一揃にした二所・三所物というのもありますが、これも同じ様に取り合わせがあり、殊に古い作となれば当然多くなります。また、刀の大小揃(同一作者・同一年紀)というのも殆んどなく、厳密な意味での大小揃というのは概ね新しい作例に多いという事になります。しかも、今の我々が日常使う「大小」という概念も江戸時代も後期頃からの概念と考えても良いとさえ思っています。

 

今回取り上げるのは、江戸後期に製作された長州鐔で、しかも大小鐔です。

大の寸法は、タテ=二寸五分五厘、ヨコ=二寸三分三厘、厚サ(切羽台)=一分五厘、最大厚サ=一分七厘(猛禽の頭部)、耳の厚サ=一分三厘。鉄・撫角型・小肉耳、細かい石目地(チリメン石目地か)、古木に猛禽に雀の図の高肉彫。銘は「長陽国高作」。

小は、タテ=二寸四分、ヨコ=二寸一分七厘、厚サ(切羽台)=一分四厘、最大厚サ(木の部)=一分三厘、耳の厚サ=一分二厘弱。鉄・撫角型・小肉耳・片櫃、細かい石目地に樹木に雀の図の高肉彫。銘は大と同じ。

また、大小共に切羽台も丁寧な形となり、その小判形状の形も整っていて大いに参考になります。そして中心櫃の真中の中心線に並行し左右にきり別けた銘である事も極めて参考になります。

長州鐔は、長州藩の特産として隆盛を極め、古くは元禄頃をほんの少し遡る頃より作品を見るとされますが、現存は極めて少ない。また、埋忠の系統を引いているともされています。一番古いのは、岡田宣政あたりを少し見かけますが、現存は多くなく、それにさえ?があります。

幕末頃には長州藩の政策もあったのでしょう、かなり多くの流派と工人を輩出しました。また、技術も高く、愛好家も昔は多くいましたが・・・。

本大小鐔の作者国高は、時代は江戸幕末頃とされ、『銘鑑』では井上系とされていますが、年紀は未確認と思われます。

 

さて、写真Aが大の表裏で、Bが小の表裏です。

Aを見てください。表には右斜目上から猛禽、おそらく鷲でしょうか古木の上にとまって何かを狙っている見事な描写と彫口です。裏には右斜目下に逃げる雀を彫っていますが、雀の位置といい形といい見事な描写と彫口です。

次にBを見てください。表には木を上方に配し、左斜目上と右斜目下に雀を二匹各々躍動感あふれる彫口で描写し、裏には上方に枝を配し、左斜目下に一匹の雀を配して同じ彫口をしています。

図柄を説明すると、大も小も表は多くの描写をし、裏は少し寂しさを覚える程の図取り(図柄・構図)にしています。これが日本の昔からのやり方で、強弱、陰陽という考え方が見事に表れています。こうした考え方は全ての美術品にあるもので、現代の様にそれを無視、または無理解なやり方は不合理そのものです。

また、小の鐔にのみ小柄櫃の孔を元来から空けてあるのも注目しなければなりません。

それから特筆しておかなければいけないのは、大小共に中心櫃に後世の加工の形跡はなく、全くの生孔です。この大小を実際に大小刀にかける時、各々の大小刀の中心(なかご)の形に合わせて孔を拡げ、刃方と棟方に必ず責金(せめがね)を施して鐔を入れ、実際の拵として使用します。したがって、この大小鐔は作られたときのままで傅来したもので、極めて貴重なものです。錆も精鍛したからでしょう、いまだ薄くしかついていません。

因みに写真Cを見てください。この大小鐔が収められた桐箱ですが、竹釘でとめられたもので、内部には虫喰もありますし、後世になっての修理痕もありますが、蓋表面の肉置は中央部がアーチ状に少し高くなっており、全てにわたり丁寧な仕事であり現代製ではありません。底部から紐で×状に結ぶ様で、その孔がありますが、現在は紐はなくなっています。

 

さて、桐箱の蓋の表には「国産鍔 大小」とありますが、その横に別筆で「高」とあります。おそらく、この別筆を入れた人は「産」というのを解釈出来なかったと思われます。昔の日本は合衆国と同じで長門国という国です

また、その裏には
「長陽国高 井上弥一郎国高(後記第四十八号作品アリ)

昭和三年 島津家 大売立ノ際 放出セラレタル作品ナリ 毛利家より島津家への進物なるも国高 銘鑑になきも毛利家の抱工にて市(使か?)役に出ざりしならむ」
との墨書があります。

この墨書は全てを信用していいのかという事になりますが、私は否定出来ませんし、この大小鍔の現状を見ても、この墨書は納得出来ると考えています。また、国高は井上姓と『銘鑑』にあり、弥一郎の俗名も記載があります。しかし、この墨書には国高が『銘鑑』漏なる様に述べている点が、逆に信用に足りる点かと考えます。小道具の『銘鑑』は戦後整備充実されてきたのは刀も同じで、この墨書が昭和三年以後、終戦直後あたりと推測すれば理屈は十分に立ちます。ただ、そんな国高であるのに、墨書者は井上弥一郎と書入れているのが逆に不思議であって、何らかの理由があったものと推測されます。

いづれにしても、正式な大小鍔であって上出来、傅来も極めて良く、最高の保存状態である事には変わりありません。
(文責・中原信夫)

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