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INTELLIGENCE

+ 小柄四題

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

〈その一〉

山銅・七子地、芦に雁の図である。寸法は、タテ=四分七厘、ヨコ=三寸七厘、厚サ=一分五厘、雁の所(最大)=一分七厘。

本小柄(A)は片手巻です。棟方に継目が見えるのですが、刃方には見られません。図柄は裏打出方式と思われますが、総体的に掌に感じる重さは少し重い感じがします。そこで内部を探ると、戸尻側に何らか固い詰物が残されていて、それが、少し重いと感じる理由・原因かと推測されます。

雁のうち、大きい方に金色絵(鍍金)が施されていた痕跡があり、芦にも同様の金色絵(鍍金)があったようです。また、芦の葉などに露玉があり、それは銀色絵のようです。雁の二匹ですが、現代的感覚では、ややユーモラスとも表現されるかもしれませんが、正確には構図が拙です。しかも芦とのバランス・距離感も乏しく、特注品とは言えません。したがって、地方の金工で、製作年代は江戸最初期までは降らない時代とみたのは、片手巻という点での最下限という考え方・妥協点とみてください。ただ、推測通り地方作なら、今少し降る製作年代と考えるべきかもしれませんが・・・。

 

〈その二〉

赤銅・七子地に烏と流水。寸法は、タテ=四分五厘、ヨコ=三寸二厘、厚サ=一分三厘、烏の図(最大)=一分八厘程。

本小柄(B)も一見して片手巻の感じがありますが、掌での重さは少し重い感じがあり、よく精査した所、二枚貼構造であり、図柄は裏打出方式でした。

一見すると、烏が三羽配置されているので、所謂有名な「濡烏」の図と思われますが、これは濡烏とは言えない構図かと思います。つまり、濡烏は“水浴”をしている烏を指すのであり、この図とは相違するとした方が良いかと思います。もっとも、どうして室町将軍家伝来とされる、あの「加藤濡烏」が何故珍重されたのか、根拠がわかりません。祐乗作とされるあの加藤濡烏ですが、祐乗作とされている伝来なので時代も古いという考え方を鵜呑にしている傾向が強く、まさに本末転倒した考え方ではないでしょうか。ただ、それにしても濡烏の図が珍重される確証が不明であります。

さて、本小柄は赤銅といっても良い黒い色のものであり、流水は銀の焼付であったのかも知れず、その辺に時代を江戸最初期~初期とみるべきでありましょうか。また、流水の両端は何となくダラけていて、力強さに乏しい感があり、超一流という構図ではありません。面白いのは水草(恐らく葵)の葉が六葉、そして流水の下に恐らく水玉(銀)がありますが、何となく構図の単なるあしらい的な感じがします。そして、地板の広さ一杯に図を配しているのも、あまり一流とは言えないと思います。ただ、七子は図柄のすぐ際まで丁寧に蒔かれていて、その細工には感心させられます。

 

〈その三〉

赤銅風の地に七子、六曜紋の三双。寸法は、タテ=四分五厘、ヨコ=三寸一分八厘弱、厚サ=一分三厘、(紋)=一分八厘強。

本小柄(C)は明らかに二枚貼構造とわかる継目が棟方・刃方にも明瞭にあります。そして、図は裏打出方式でありますが、裏打出で家紋三双という図柄は経眼した記憶があまりありません。むしろ、珍しいかも知れません。また、六曜の家紋は中央の紋が一番高い彫となっていて、各々に銀の色絵(焼付?)が施されていた痕跡があります。

赤銅の色は前掲の烏の図ほどの色ではないのですが、七子が手擦でツルツル状態となっていて、しかも手擦が出来て然るべき所に、その傾向、所作が多いのであります。これはいつも申し上げている事ですが、長い間、実用に供された確証ともいうべき痕跡でありますから、江戸初期を降らない頃の製作かと推測しています。

本小柄も初見の折、掌に載せました時は、片手巻と思った程ですが、何となく、微妙な重さが感覚として残りましたので、精査しましたら、前述の構造でありました。従って、思い込みとは全く恐ろしいものであり、これからも一点一点を考えながら精査して参りたいと思います。

 

〈その四〉

赤銅・七子地、牛繋の図。寸法は、タテ=四分七厘弱、ヨコ=三寸七厘、厚サ=一分五厘、(牛の所の厚サ)=二分二厘。

世上、牛の図柄は割りに多く見かけますが、本小柄のように牛を巧みにつないだ図は多くありません。

さて、本小柄(D)は二枚貼構造であり、確実とは言えませんが裏打出方式と推測して、色々と内部を精査してみました。その結果、裏打出という感触を一応は得ています。

さらに、感覚でいうと掌に載せた総体的な体積からくる重さは、少なくとも二枚貼・地板嵌込方式ではない重さであり、また、片手巻でもない重さです。となれば、二ケ所の継目が確認できますので、残りは裏打出方式とみるか、または鑞付による据紋方式しか残らなくなります。

では、この微妙な重さの違いはというと、表側より裏板の方が分厚い構造になっているのが小口から見て一応わかるのです。七子も丁寧な蒔き方であって、しかも然るべき所が手擦でツルツル状になっている点もあり、江戸初期を降らない、少し傍系の作であろうと推測しています。それは図柄の配置ですが、こうした考え方も将来的には教条主義というレッテルが貼られるかもしれません。必要なのは、何といっても金属検査の確立でしょう。。

 

(文責・中原信夫)

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