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INTELLIGENCE

♯ 「刀は人殺しの道具」…刀を曲解する案内人

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

私は、文字はその国の文化程度を表わすと思っている。以前、拙著『刀の鑑賞』の英訳本を出版させていただいた折、翻訳者(イギリス人)ともかなりの激論を闘わしたのだが、日本語というのは、漢字、仮名、片仮名文字が自由自在に使える文章ができるし、一文字づつの構成になっているから、縦にも横にも文章を組んでいける。しかし、アルファベットはそうはいかない。単語(複数文字)を途中で切ってしまうことはできない。こうした経験から、私は日本文字の独自性と柔軟性とを痛感させられた。この日本文字は自由自在に取り扱う事ができる素晴しい文化のひとつであると胸を張って言いたい。

 

前回、文化庁の看板の事を書いたが、現在というか、明治以来、ことに戦後は御役人と政治家の文化程度の低さというか、無さがワザワイをしている。それが、日本の文化を理解させなくしている。もっとも、民間人もその両方のいいなりに従う傾向が強いのが頭の痛い処だ。

例えば、今年(平成26年)5月の出来事だが、このような事があった。

5月の中旬、私は九州地方の研究会に出張していたが、その折、佐賀城内の会場で肥前刀の展覧会が開催されていたので、時間を都合して、4名(私を含めて)で見学させていただいた。そこでは、初代忠吉・忠広から9代忠吉までの作刀などが展示してあり、有意義なものであったが、私達が熱心に見ていたら、ボランティアの案内人(年配)が、小学生とおぼしき子供たち10名位を案内して、刀剣コーナーの部屋に入るなり、『刀は人殺しの道具です・・・』と大音声でやり始めた。私はさすがにムッときたが、子供たちの前でボランティア案内人と争うのは、あまりにも大人気ないと思って目をそむけていた。子供たちも案内人もさっと一廻りしただけで、そのコーナーから出て行ったが、私の腹の虫はおさまらなかった。他の同行者の方々もさすがに私同様ムッときたらしく、お互いに目を合わせたら、それがわかった。

帰る際に出口にいた館の方に、前述の事を話し、以後あの様な間違った案内は厳にしないで頂きたいと申し入れたのだが、未だに釈然としない感じがある。

その年配の案内人は、何か刀でひどい思いをされたのかもしれないが、小学生にむかって“人殺しの道具”とは口が避けてもいってはならない。

 

私が言いたいのは2つある。今の日本人の多くは、刀は恐ろしい武器という感覚を根強く持っている。これは進駐軍・マッカーサーの残した迷惑極まる置土産。

もうひとつは、小学生の頃にこの様な間違った教え方をしたら、なかなか自国の文化財・美術品に目を向けなくなる。これは置土産よりもさらに重大だ。

刀は勝手に人を刺したり、斬ったりはしない。要は刀を握って使う人間が一番恐ろしいのであって、刀はそのままにして置いても何も犯罪は起こらない。人殺しを防止するなら、人間を正しく導いて生活するようにするべきで、刀があるから世の中が乱れる・・・なんて考えは誰が考えてもおかしい。仮に、刀が恐ろしいと言うのなら、台所の包丁やハサミ、鎌なども、カッターナイフも刀以上に恐ろしい筈だ。

 

私は、昔の美術品(つまり過去の遺物という見方もできるが)だけがあれば、高い文化があるとは考えてはいない。昔、美術品を作った人達と同じ精神性、感性、感覚という底に流れるエッセンスの様なもの・理念を持ち続けないといけない。それは形としては表面に出てこないものであるが、時代に応じて条件さえ満たされれば、必ず表面に出てきて発芽して、ひとつの作品として姿を表わす。これを一貫して長い間持続できる国民性が文化程度の高い国・民族となるのである。

要は理念というエッセンスを持っていなければいけないのであって、「物」そのもの、つまり過去に作られた作品に何が何でも拘ってはいない。
(文責 中原信夫)

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