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INTELLIGENCE

♯ 親国貞・親国助の位置づけ

Copywritting by Nobuo Nakahara

親国貞(初代)と親国助(初代)(以下、国貞・国助という)は京の堀川一派とされるが、堀川国広の直接の弟子ではなく、越後守国俦の門人とされる説が有力である。今回は国貞と国助が果たした役割と功績について述べてみたい。

 

国貞・国助は大坂へ移住して、大坂新刀(寛文・延宝以降)への基礎を作った刀工である。国貞は井上真改を育てたし、国助は中河内国助等、そして結果的に越前守助廣(初代のソボロ助廣は国助門)を育てた。つまり、寛文・延宝頃の大坂新刀の中心的、いや新刀期全体の代表刀工を育てたのであるから、この国貞・国助はもっと評価されて然るべきなのであるが、現在に至るも、余りパッとした評価を得るには乏しい感がある。

よく越前守助廣の親はソボロ助廣、また井上真改の親は国貞、中河内の親は国助であると、研究会、鑑賞会だけでなく、諸本に書かれていたり説明されるが、これらの捉え方は全くの誤である。「国貞の子供が井上真改である。」「ソボロの子供が越前守助廣である。」「国助の子供が中河内国助である。」と説明解説するのが正確で順当・的確である。国貞あっての真改、ソボロあっての助廣、国助あっての中河内であるという事を今一度冷静に考え直して欲しい。

 

さて、こうした話を進めていく前に前述の論点と大きく連動する一つの大きな事を論じなければならない。それは古刀と新刀の区別である。つまり、慶長をさかいに以前を古刀、以後を新身(あらみ)で新刀と呼んだ事である。これは江戸時代に出版された『新刀弁疑』(安永6年1777年刊)のサブタイトルに“慶長以来”とあることに由来するとされるが、これが大きな問題点なのである。新古の区別に関して結論を言うと、私は慶長で区切るのではなく、寛永を境に区切るのがよりベターであると年来主張してきた。この根拠は前述の国貞・国助の存在である。この両刀工の活躍は寛永頃からと見なしていいし、裏年紀も少ないが見られる。しかも、政治的にも寛永頃は三代将軍家光になって、幕藩体制も固まりかけたし、天草島原の乱も終息。あらゆる点で刀というものに与えられた役割が大きく変わりつつある時期にも相当する。

 

この国貞・国助が大坂に定住し、子供を育てつつあったこの時期である寛永頃迄に必ずあった大前提、つまり武器としての刀の役割が段々と薄れていきつつある時期でもあり、もう戦乱もなく安定した世相になってきつつある時期でもある。

それ故、次の時代は武士のスティタスとしての刀に、武士のみならず刀工の考え方、捉え方が大転換していくのである。その大転換した考え方を体現したのが、井上真改であり、越前守助廣であり、中河内国助である。従って、これらの先代達(国貞・国助)の作風には古作(言うならば「末古刀」)に見紛うようなものもあり、刃文の態も整っていないものが多い。国貞も国助も武器としての刀を作っていたのであり、次代の子供達が作り出した“見せる刀”である刃文が整っている刀を作っているという感覚は殆どゼロに近かったというべきで、親子の間での感覚は全く別次元である。

 

こうした見方をしていくと、真改・助廣・中河内には古く見える作刀は全く見当たらず、大きな感覚の相違点となっているから古刀と新刀の区別を慶長頃で区切るより、もう少し年代を下げて寛永頃で区切る方が、よりベターであると主張するのである。また、寛永頃とすると、江戸には殆ど刀工は居ないに等しく、それから後の寛文・延宝頃から江戸へ刀工の流入が甚しくなってくるので、真改・助廣・中河内の活躍と期を一にする。

しかし、真改・助廣・中河内の高い技術力は、国貞・国助があっての話でありますから前述の様に、国貞・国助の子供が真改、中河内であり助廣であるとの正確で順当・的確な捉え方をするべきであります。

では私が新刀の基本とするべきであると主張してきた肥前刀に少し目を向けると、まさに寛永で初代忠吉から初代忠広に切り換わり、少し後に二代忠広が出現している。この親子にしても、初代忠吉と二代忠広の刀に対する感覚の相違は大きく国貞・国助のケースと同じであるし、親の技術力を基にしての子が存在する。これを見逃してはならないのである。

 

以上、やや大まかに国貞・国助の果たした位置づけを述べましたが、この文を読まれて国貞・国助への正当なる評価が広まることを願っています。
(文責 中原信夫)

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