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INTELLIGENCE

♯ パリコレ的錯覚

Copywritting by Nobuo Nakahara

昔から思っている事であるが、有名な「パリコレ」とかファッションショーなどに登場するプロのモデル達のことである。もちろん、カタログ等に商品を着たファッションモデルが登場するのも同様であるが、全てスタイルは抜群、細身で贅肉もついているはずもなく、ましてやメタボでもない若い美人である。ただし、容貌はスタイルと一致しないと私は感じるが。もっとも、美人か否かは見る人の主観にもよる?・・・。

 

こんなプロポーションが群を抜いたモデルなら、どんな服でも良く映るし、また一般消費者からみて素晴らしいと目に映るようにしてあるから、購買意欲をそそるようになる。しかし、その服を購入しても着る人間がメタボであったり、プロポーションが崩れた一般人が着ても、本人だけが満足している場合もあろうし、第三者から見たらおよそ似合わないものと映る場合もあろうかと思う。つまり、モデルはそんなプロポーション抜群ではなく、そこそこの体型(容貌も含めて)の人間をモデルに使った方が却って共感を呼び、良いのではないかと思うが、如何であろうか。

 

では、この話のモデル(プロ)を刀に置き換えたらどうであろうか。刀剣誌などでは、一流刀工を多く掲出し、いかにも我々の周囲にそのような一流刀工の作が一杯あるかのような感覚を与え続けている。

入札鑑定会などでも、やれ来や粟田口、一文字などの誰でも名前を知っているのを出品したがる傾向が強く、参会者、読者もこうした感覚に慣らされているのも事実である。もっとも、問題が全くない来や粟田口、一文字なら良いのだが・・・。

 

こうした傾向の連続が強くなり、愛好家が大銘(超有名)刀工の作を求めたがる方向に向っていき、揚句の果てに無銘の極を濫造する結果になっていくし、既にもうなってしまった。特に戦後はそうした傾向が強くなり、日刀保の重要・特重の指定がそれに拍車をかけた。

しかし、それはやがて崩壊するであろう。つまり、全く同じ前例がある。それは「折紙つき」という慣用句を生み出した本阿弥家の折紙の例である。ただし、私の言いたいのは折紙そのものが、また、特重・重要そのものが悪い訳ではないという事を取り違えないでいただきたい。
(文責 中原信夫)

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