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INTELLIGENCE

♯ 欠陥作「乙御前」・・・光悦だから褒めた?

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

私は刀の社会に埋没している人間なので、刀以外に趣味はないと思われているかもしれないが、残念?ながら小道具は大好きであるし、陶器・絵・書も好きである。

さて、陶器というと、かなり以前になるが自宅にガス窯を設置されて陶芸三昧の知人がおられて、年4回であったがそこで陶器を作らせていただいた時期があった。その時に作った作品の何点かは手元に残っていて、時々使わせていただいている。もっとも、ロクロを使えない私であるから、手捻(てびね)りで作るしかなく、土を知人に作ってもらったのを、ただ形成だけしたのが事実で、それも削りから薬がけまで、全部を知人の手を煩わした次元のものであった。

 

手捻りといっても私の場合は、湯呑が次第に大きくなってまとまらなくなり、しょうがなく茶碗にしたというのが正解であって、知人からは「茶碗ですから高台が低すぎては使いにくくなりますし、今少し高台を高くしてくださらないと、乾燥させた後の成形(削り)もやりにくいので・・・」などとの苦情的要望が出された。つまり、茶碗としての基本的な造形が私には全く出来ていなかったという事である。

因みに、畳の上に置くのが茶碗ですから、両手の小指を茶碗の高台の両脇にすべり込ませて、茶碗を持ち上げるのであるから、少なくとも小指の太さの分の高さのある高台にしなければ、不合理になるからと考えられる。さらに、掌で包み込むようにして口元まで茶碗を持ち上げるのであるから、茶碗の胴部分は、その造形にしていなければ、掌になじまず使いにくくなり、取り落としたり、茶を呑みにくくなるなどの不合理(不作法)が生じるからであろう。以上は素人の私の考え方であるから、そのつもりで・・・。

 

さて、素人の茶碗といえば、本阿弥光悦作とされて有名な赤楽茶碗「乙御前(おとごぜ)」があるが、高台は低く、しかも焼成時にヘタって凹んだらしく、底部も円形に大きく割れている。しかも胴部には縦割が口部分から底部にまで入り、美事な欠陥があらわれている。ただ、楽焼茶碗はこのようにキチッとした形ではなく、歪んでいる所に却って長所があるというのだろうが、使い勝手が良いのを“美”とした筈で、使い勝手が悪いのを無視はできないはずである。

さて、この光悦作とされる「乙御前」の底部の割であるが、成形時の不始末が原因であると思われる。まさに素人作もいい所である。しかも、人の口が当たる部分は凸凹していてなめらかではなく、小さい割も入っているが、これも成形時の不始末と考えられ“美”とはいえないものである。

 

こんな茶碗がどうして有名であるのか、私にはわからない。誰か教えてほしい。有名な光悦作だからであろうが、仮に私が作ったとしたら、すぐに棄てられてしまっていただろう。因みに、この乙御前は本当に光悦作なのか。それから吟味すべきであろう。本物なら、他の作が上手すぎるから、名義貸しかも? さて、この茶碗の解説を某書から引用しておく。

「いかにも光悦が手すさびに楽しんで作った茶碗という感がある。口部から高台にかけて全体に丸みがあり、上から見ると口作りはほぼ三角状の不正円につくられている。高台も破格の作振りであるが、茶碗そのものの面白味、親しみを倍加している。(以下略)」

 

この解説を読んでも私には何を言っているのかわかりにくい。この本の編者は陶器の権威者とされていて、国立上野博物館にいた方。私も二度程の面識がある。このような博識と世間的な評価を得ていた有名鑑定家の説明(本人の書いたものではないケースもあろうが)と能力で果して光悦の茶碗の正当な評価ができるであろうか。単に光悦だから褒めたというなら、まさに“腐っても鯛”の類いのものであろう。

「乙御前」は本当に光悦作であろうか。私はどちらかというと、かなり?と思う。国宝の「富士」などと較べてもこれが同じ光悦作と?であるが・・・

読者の皆さまに先入観念・既成概念を一度でいいですからリセットしてみていただきたい。
(文責 中原信夫)

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