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INTELLIGENCE

♯ 本阿弥光悦の遺言

Copywritting by Nobuo Nakahara

桃山時代というか室町末期から江戸時代の寛永頃にかけての文化は、素晴らしい次元のものである。その文化の中心人物に本阿弥光悦と千利休がいると思われる。勿論、この二人だけではないが、この二人はある意味で前時代に全く無かった価値観、つまり新たな付加価値を創り上げた様に思う。但、この二人が最初に育てられた価値観を十二分に知り尽くした上での、それを超えた全く違う次元の付加価値創造を成し遂げたと考えている。

因みに、この二人に共通するのは人間性の“悪さ”であろう。悪いといっても犯罪者でもないし、つまりは、普通のありきたりの考え方ではないという意味であって、仮の表現であるからご容赦願いたい。

 

私は茶道には全く素人であるから、千利休については余り言及したくないが、本阿弥光悦については、私見を少し述べてみたい。私は光悦が死ぬ間際に、一族(といっても大半は江戸へ行ってしまっていて、それでも京に残った者)に、「いつまでも王城(京)に住居して、御用向きの節は出府仕るべく、決して江戸御表へ引越の儀、ゆめゆめ有るべからず」と訓戒したという。若し、これが事実(多分、概ね真実と思う)なら、光悦は異風者(変り者)の典型であろう。なにしろ日の出の勢いの徳川家康に逆らうのであるから、下手をすると首が飛びかねず余程のしっかりした命がけの考え、つまり絶対的に揺るがない理念があったとしか思われない。

 

併し、皮肉なことに光悦の遺言を聞き、何としても踏ん張って京にとどまるべき者達は、すぐに江戸へ行ってしまった。やはり、その連中と以前に江戸へ行った一族に、光悦の理念と同等又はそれを超越する理念を持った人間は、誰一人一族の中には居なかった事になる。

どうして光悦は江戸を嫌ったのか、飽く迄も私の推測だが、権力者の丸抱えの中では、文化というか秀れた創造は生まれないと本能的に感じとっていたのではないだろうか。まして、光悦の本音中の本音は、江戸を形成している成り上がり武家に何がわかるかという様な文化・教養的な毛嫌いがあったとは考えられないだろうか。

徳川にしても、遇々天下をとった武将達も、素(もと)を質せば文化と全く関係のない次元の人間である。それ位の考え方をしていないと、幕府(家康)の意に逆らう事は不可能。尤もそうした態度はおくびにも出さずに、他の理由を色々と並べて、極めて消極的反抗をしたと思われるので、こうした分析をもとに考えてみると、不屈の精神を持った人間で、文化・美的感覚に秀れ、時代の流れと実利を見事に捉えた人間と思われ、その人間性は極めて悪い。

 

茲で一つ大問題がある。光悦の収入源である、恐らく本業の研で収入を得ていたのであろうと推測するが、扶持百石にしても果たして?である。そこで光悦ブランドの作品を親族(技術者)や業者と組んで売り出し収入源にしていた、と考えた方が順当か。・・・したたかな人間である。

ちょっと違って伝わるかもしれないが敢えて言うなら、現代風・標準語的に云えば、“長い物には巻かれろ”的とは全く正反対の次元に居たと思われる。そんな人間でなければ、素晴らしい秀れた今迄に類例のない次元の価値観を創りだせる、あるいは持てる筈はない。とかく、人間は長い物には巻かれやすいし、餌をまかれると直ぐに喰いつく。

 

今から四十年程前、私の師・村上先生の膝の上に手をやって、「○○のような下手な研師が人間国宝になった。なのに俺はならない・・・俺の方が上手なのに・・・」と号泣し不満をもらした身勝手そのものの人も、後年やっと念願の人間国宝になった。功なり名を遂げたのは誠に目出度し、めでたし・・・。

私は身勝手研職を慰めた村上先生の顔付を思い浮かべる方がおかしくなる。先生も困りきった表情だったが、本人にはそんな事は言えないし・・・。
(文責 中原信夫)

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