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INTELLIGENCE

♯ 砥石(本阿弥光悦)

Copywritting by Nobuo Nakahara

先般、本欄に本阿弥光悦の事を書いたが、一般社会でも、刀剣関係以外の美術品関係の社会でも、本阿弥といえば多分“光悦”と必ず口に出すであろう。次は空中斉光甫ぐらいであろうか。

併し、ちょっと待って欲しい。本阿弥光悦・光甫は分家である。では、本家の方は?といいたくなる。

 

本阿弥を名乗る以上、本家(宗家)がメインであって、光悦は傍(わき)である。とはいっても例えば本阿弥光徳といっても、一般社会からは「光徳という名は聞きませんね。それはどんな人?光悦の一族ですか・・・」ぐらいが関の山。逆にいうと光悦の名は、そして才能はそれ程偉大であった事もこれ又事実ではある。おまけに“光悦村”なるユートピア?が有名であって、誠に困った事である。

因みに、光悦が徳川家康に願って貰いうけた京都の鷹ケ峰(俗に光悦村と云う)であるが、その当時は京都の外れであって、辻斬りや追剥の類が出る様な場所とされている。そんな所を家康は「光悦の様な変わり者には良いであろう…」とくれてやったというが、この話は恐らく作り話の筈。

確かに光悦は幕府の江戸定住命令に抵抗して、江戸定住をしなかった。更に、死ぬ間際には京に残った一族に“江戸へ行くな”という意味の遺言まで残している程の変わり者(くせもの)である。

 

何故、光悦が鷹ケ峰を欲しがったのか、それは恐らく砥石(鳴滝砥)であろう。本阿弥宗家(本家)は、鑑定のみで幕府の御手当(禄)をもらっていた。つまり幕府御用であり、大大名といえど表向きは、直接は鑑定に提出出来ない。併し、分家は研磨専門であって、研磨には砥石がいる。それも仕上用の極上砥石でもある鳴滝は不可欠。これらを産出するのが、その鷹ケ峰近辺であるから、何かと都合が良い筈。現に本阿弥本家は砥石の運上金をとり立てていると記憶する。これが光悦の隠れた一つの目的であったかも。

 

光悦は研も上手であったというが、これは推測である。また、多くの分野の領域に手を出した文化人である事は事実。併し、恐らく陶芸や蒔絵にしても、下職人にデザインを指定して作らせた“光悦ブランド”としか考えられない。余り、光悦を神格化する事は危険である。但し、秀でたプロデューサーとしての才能は十分に認めないといけないが・・・。
(文責・中原信夫)

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