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INTELLIGENCE

♯ 所謂、鷹ヶ峰(たかがみね)光悦村の古地図について-その1

Copywritting by Nobuo Nakahara

本阿弥光悦については、本サイトで以前に私見を述べたが、今回は所謂、光悦村古地図についての私見を述べてみたい。

 

では(1)を見ていただきたい。これは『刀の研究』(大正七年六月刊 本阿弥光遜主幹 川口陟編)の口絵に掲載された写真であるが、大正七年の時点で既に光悦寺所蔵となっているので、川口氏(ペンネーム・室津鯨太郎)が撮影した写真ならば、大正七年五月以前には光悦寺へ行って、この古地図を撮影したと思われる。では、この古地図が昔から光悦寺所蔵であったのかというと、古地図が初めて世に知られたのは「大正二年、京都で開催された光悦遺品展覧会であって、当時の所蔵者は鷹ヶ峰の片岡家であった」(『本阿弥行状記と光悦』昭和二十三年四月刊 正木篤三著)が、「大正二年四月に片岡元徳氏より光悦寺が譲り受けた(『光悦』大正五年二月刊 森田清之助編)」との事である。

さらに、『本阿弥行状記と光悦』では「但し図の現状に於て光悦の屋敷の所へ、光悦の文字と肩を並べて“六左衛門”の記入があるが、之は後人為にする所の書入であって、その筆者、年時共に明瞭であって、この図の発見された当時には勿論なかったものである」と述べている。ただし、この図が鷹ヶ峰の片岡家で発見されたのはいつ頃なのか、という事は不明。

では、正木氏の書き方では、この書入をしたのは決して昔の事ではなく、最近のものであろうという意味にしかとれない。しかし、(1)を見てみると(1)には “六左衛門”の書入は全く写っていない。となると、(1)が光悦寺所蔵になった(大正二年四月)後に、そして昭和二十三年四月以前の第三者による書入という事になる。となると、(1)は片岡家所蔵時そのままの状態の写真という事になるが、書入をした犯人探しをするつもりはないので、次に移りたい。

 

大正五年二月発行の『光悦』(森田清之助編)に所載の古地図が、割に鮮明に写っていたので、それを(2)として掲載する。

では(3)を見てください。『本阿弥行状記と光悦』に所載の古地図は(3)と同一物と思われるが、この(3)は、『光悦』(昭和三十九年刊 第一法規出版)に紹介されていて、私達には一番なじみのある古地図であるが、ここには正木氏の指摘の通りの書入、つまり光悦の左側に六左衛門と書入があるのである。そうすると、(2)は(1)とは本来、同一という事になるのであるが、色々と気になる事があって、(1)を拡大鏡で見ながら、(2)・(3)と対比してみた。

その前に、(1)と(2)の古い折り畳み皺と汚れや染とその残り具合を観察すると、(1)と(2)は同一物とは思えない事に気づいたのである。そして(2)と(3)は前述の所作等からみて同一物である事はほぼ間違はないと思われる。

因みに、(1)・(2)・(3)で一番古い書籍での掲載は(2)で、次に(1)そして一番新しいのが(3)である。

 

では(1)と(2)・(3)を比較してみたところ、書入や位置や筆写線の相違が明らかに見られたのである。(1)は確かに不鮮明な写真ではあるが、判断のつかない、あるいはつきにくい不鮮明な所を避けて比較してみたら、明らかに写り具合のズレとはいえない所が、十数カ所以上あったのである。

多少、煩瑣になるが例を挙げると〈Aを見てください〉(2)・(3)の北側(右側)に「他江ノ田地」とある。この「江」は「所」と訓んだ地図もあるが、これは“郷”を“江”と書き崩す事があるので、これと同じである。因みに本阿弥家の無銘極で郷義弘の郷を単に“江”とするのは有名であり、こうした点にも興味ある“江”という字である。(2)・(3)の「他江ノ田地」とあるのを(1)に対比すると、(1)では同じ文言をタテ一行に書入れているが、(2)・(3)では「他江ノ」の部分だけを少し右へズラして書入れている。

また、〈Bを見てください〉(2)・(3)で「東ノミち」としてあるが、(1)では「東のミち」とあり、明らかに文字が違っているし、〈Cを見てください〉(2)・(3)での「西の通すし」は道の真中にほぼ中央真直ぐの書入であるが、(1)では“すし”の文字だけがかなり北側(右)へ寄っている。

さらに、〈Bを見てください〉(2)・(3)での「東ノミち」の書入のすぐ左側の「口二十間 本弥又次郎(光茂〈貞享元年没〉か)」という表記であるが、(2)・(3)では明らかに「本阿弥」の「阿」が脱けているのであり、(1)では「本阿弥又次郎」となっている。

次に〈Dを見てください〉(2)・(3)の光悦屋敷の南側(左側)・孫助から七軒分(最左端は光益)までの並びの東側(下部)に二箇所にわたって、「いつれも上のやしきのはら」、「何も上ノ屋敷ノはら」という書入があるが、この二箇所の書入は(1)には二箇所ともに全くないのである。しかも、(2)・(3)のこの二つの書入であるが、一つは「いつれも」とあり、もう一つは「何も」と漢字がまじっている。また「上のやしき」は「上ノ屋敷」となっているのは不審である。これは書入れた時期と人物が相違すると考えるべきが順当であろう。

さらに〈Eを見てください〉(2)・(3)で南側(左)に向う“通り町すじ”(光悦屋敷の直前の通り)の京口とある間の西側(上部)左から四軒目の“与右衛門”屋敷の西側に「原十六間半」と書入があるが、(1)では「原十六半」としか読むことは出来ない。

 

以上、その他にも筆写線の向きや太さ、角度など、また、書入の文字の配列角度等について、目立つ相違点があるが、結論としては(2)・(3)と(1)は別物であるという結論が出てくるし、その様にみるしかない。

さらに付加するなら、〈Dを見てください〉(2)・(3)の東南方向の隅に「たかかミ年分」(鷹峰分)と記入してある変形の田であるが、「たかかミ年分」の記入の左右の二箇所に「田」と記入がある。しかし、(1)だと、「たかかミ年分」というのは同じであるが、二個の「田」の記入位置が(2)・(3)と相違し、そして筆写線も違っている。

こうしてみると、従来の考え方では(1)・(2)・(3)は同一物である筈である。たとえ、(3)に後人の書入があるにしても、(1)と(2)・(3)が同一物であるべきであるが、同一物ではないことになり、説明不可能である。

(1)は光悦寺所蔵とあり、(2)・(3)も同様である。(3)は確たる説明はないが、今まで光悦寺所蔵と思っていたし、一番良く知られている古地図であろう。

では(1)・(2)・(3)で一番古い、つまり原図と考えられるのはどれなのかという事になれば、所伝の通り大正二年に初めて公開されるまで所蔵されていた古地図はとなれば、私は(1)が可能性が高いように思う。なぜなら、(2)と(3)は明らかに染抜が施されてキレイな状態になっているからである。

さて、正木氏が指摘された“六左衛門”なる書入が本当であるとして、それは(3)である。しかし、(1)と(2)・(3)は相違しているのは前述の通りで、覆すことはできない。

ここまで考えて、一つの推測と新しい捉え方が出てくる。

つまり、この種の古地図は一枚のみではなく、写(うつし)が何枚も製作されているという可能性(推測)である。

それとこの種の古地図の本来の使用目的であるが、これが一番重要となるのである。この使用目的についてのキーワードは何といっても後人が勝手に書き入れたとされる六左衛門の四文字であろう。

 

では、次に(4)を見ていただきたい。この(4)は私の知人がインターネットに掲載(出典不明)されているとして、私に提供してくれたものであるが、この(4)に記入された「承応三年六月 光悦拝領略図地面 写 片岡忠英」が極めて重要である。

ただ、この文言には解釈がちょっと別れる書き方とも受取れる。つまり、「光悦拝領略図地面 承応三年六月 写 片岡忠英」となっていれば、文字面の通り、写した年代と筆者人が確定し、動かぬものとなるが、文言の配置が少し気になるが、一応後者の意味と捉えておきたい。

これについては次稿で。
(文責・中原信夫)

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