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INTELLIGENCE

♯ 所謂、鷹ヶ峰(たかがみね)光悦村の古地図について-その3

Copywritting by Nobuo Nakahara

前稿の続きを少し述べてみたい。地図の(2)であるが、この(2)を掲載したのが『光悦』(大正五年刊 森田清之助編)であるが、森田氏は、
「この図の実際は元和の末より寛永初年迄のものなるべし・・・(中略)・・・「いはい所」とせるは、則ち今の光悦寺の地域にして、翁(光悦)昨年此地に大虚庵を結び、終焉の地となしたる所なるが、此図に未だその跡を印せず・・・(中略)・・・其通りすじ東側、光益、光栄の地と区画せられたる所には、妙秀殁後妙秀寺建立せられ、其開基日慈は寛永四年八月に寂せり、本図に妙秀寺の記入なくして、光益 光栄の邸地と見えたるは多少の疑なきにもあらざるも、思ふにそは、妙秀殁後、妙秀寺建立以前のものなるに依るべし」
と述べている。

この点については(1)〜(4)を、地図とみないで、最初の土地所有の略図とみれば何ら不思議ではない。妙秀(光悦の母)は元和4年没・90歳である。これと同じ事は光悦の養子・光瑳が創建したとされる常照寺であるが、(4)になって初めて常照寺という書入が出現してくる。光瑳の尽力で創建された(『本阿弥行状記』)のなら、光瑳は寛永十四年十月五日没・六十四歳。つまり光悦が死んで八ヶ月後に没しているので、少なくとも寛永十四年迄には完成していた筈である。しかし、(1)・(2)・(3)ともにこの所は空白で残されている。これも疑問ではあるが、前述の最初の土地所有の略図という考え方で一応理解は可能。

ただ、(1)〜(4)までで、その書入の内容が一番信頼出来るのは(4)であろう。

 

では、一つの?がこの(1)〜(4)の書入にある。それは、光悦屋敷の通りの向い側にある一軒の屋敷の主人の名前である。つまり、「おかた宗伯(柏)」と「蓮池常有」に挟まれた間口が未記入の屋敷である。この主人は「□□□□道安」とはすぐに判読出来るのだが、道安の上の四文字(変体仮名)が不鮮明で私には仲々判読出来ない。戦後に出版の『本阿弥行状記と光悦』・『光悦』(第一法規刊)では「むめたに」と判読しているが、戦前の大正時代に出版の「光悦」(森田清之助)・『刀の研究』(川口陟)では「ひめたに」と判読したようである(これについては「ひ」が誤植ではない事を祈るのみ)。

では(K)での(4)で判読してみると「□めたに」と判読出来る。何故、最初の一文字を□にしたのかというと、(K)での(1)〜(3)もこの部分のみは変体仮名の「ひ(飛)」とも「む(武)」とも読めるからであって、各々共通しているのは二つ目と三つ目の「めた」の二文字である。(K)での(4)の四文字目を「に」と私が読んだのは「尓」の崩し字であるある事は明白である。しかし、(K)での(1)〜(3)のこの部分は「尓」とも、「た」とも読むには不鮮明な形状にしか写ってない。

そうなってくると、この四文字は第一に「むめたた」、第二に「むめたに」、第三に「ひめたに」という事になる。因みに平成十五年に、(財)日本美術刀剣保存協会の機関誌『刀剣美術』十一月・十二月号に「光悦村の金工」|「光悦古図」中に見る「埋忠」と「躰阿弥」と題した論稿(大阪歴史博物館・学芸員内藤直子氏)が二回にわたり掲載されて、そこで内藤氏は、この四文字を「むめたた」と判読して「埋忠」と解釈されたのである。この論稿で採用された古地図は(3)であろうと思われるが、現在の光悦寺所蔵という現物の地図では未確認と間接的に聞いているが・・・。

 

まず、埋忠説なら三文字目が「た」は共通項であり、四文字目の「た」であるが、普通は「こ」という字を少し斜目下にむけたような字「〻」となり、上と同じ字がつづく場合は単に「ゝ」と書いた場合もみられる。しかし残念ながら不鮮明な写真からでは「ヽ」としか写っていないが決して読めない事もないかと思うが・・・。では(4)ではというと、明らかに「尓」であり字体の3画目のタテ棒から続く4画・5画目がくるっと「の」の字のように丸く廻っている。もっとも(4)が正確な書入とした上での結論であるから、決定ではありえない。誤写という事もあるから。

では四文字の内の一文字目は「飛」を崩したものかとなるが、何となく違うと思う。とすればやはり、「む」と読むべきであろうか。個人的には「む」と訓む方に可能性が大であると思うが・・・。それにしても現代人(私も含めて)よりはるかに能筆であった大正頃から昭和初期の人(森田氏は未詳だが)川口陟氏は著書も多くあり、字はよくわかった筈の人である。その人達が「ひ」と読んでいるのにはちょっと無視出来ない気がしてならない。

仮に「む」と読んでみると、「むめたに」となり、「梅谷」という姓が頭に浮かんでくる。内藤氏は職場の博物館の学芸員にも意見をきかれて「むめたた」(うめただ)と読んでこの論稿を書かれたようであると間接的に聞いている。

 

では、この道安なる人物はという事を少し推測してみたい。まず、光悦の真前に屋敷があり、その並びには間口二十間で尾形宗柏(地図の書入では伯となる)や同じく二十間で幕府とも密接な繋がりがあったとされる豪商・茶屋四郎次郎がいる。これ程の人達がいるのである。となれば、、この道安は光悦にとってかなり評価の高い人物でなければいけないが、間口の記入がないのが不思議であるが、一応推量してみると、二十間はなくとも十五間ぐらいはありそうな感じである。したがって、埋忠明寿ならいざしらず、こんな重要な所へ埋忠の系図等にあらわれない一職方(技術者)をおくであろうか。本阿弥家の総帥である本家(代々が三郎兵衛を名乗る)の屋敷(間口二十間)とも見較べるべきである。また、光悦村の住人は本阿弥一族を除き、光悦の本業(研)と余り関係のない余技の方面での人選が殆んどと思われるが・・・。

では仮に道安を埋忠家の一人としても、別に問題はないのである。それは本阿弥本家と埋忠明寿家との付合がメインであったわけであるが、刀の鑑定(折紙発行)のみの本家とは別の分家筋(研のみが本業)の光悦との関係もあった事は当然の事実であろう。『本阿弥家の人々』(福永酔劍先生著・平成二十一年刊)でも、「本阿弥家と埋忠家は持ちつ持たれつ、唇歯輔車の関係」とされていて、その関係は極めて密である。しかし、この埋忠家(一派)は本阿弥家よりももっと資料がなく、全く解明はされていない。現在わかっている埋忠一派中に道安なる人名は見出だせない事は内藤氏も論稿中で述べているが、失礼ながら、私と内藤氏そして、光悦を論じた美術分野の研究者との決定的な相違は、本阿弥家と埋忠一派への理解度と捉え方の相違であろう。光悦から、つまり光悦を原点にして本阿弥家を捉えるのは間違であり、その逆であります。

 

さて、前述の四文字を「うめたに」とするか「ひめたに」とするかは、残念ながら、(1)と(2)・(3)を実見出来ない今の私には結論は出しきれない。『本阿弥行状記』に「梅谷殿」という記述はあるが、時代的に符合するか否かであろう。「ひめたに」については「姫谷」であるかもしれないが。全くお手上げである。

さて、そこで全く根拠も何もない推測による私見を言うと、道安という名前であるが、埋忠なら技術者・職方である筈だから、何となくふさわしくない名前である。

道安なる言葉の響きからくる感じとすれば、年配の趣味人、世捨人かという気がする。そこで頭に浮かんだのは千利休の長男・千道安であるが、この人の没年は慶長12年とされている。されているのであって、これには異説ありとしているが・・・。もし、千道安ならば、光悦の茶道と全く無関係ではないし、少々飛躍するが、光悦村の南(京口)にある本阿弥光甫の屋敷〈(J)参照〉は、以前には千利休の茶室があったとされ、関白秀次も来遊した所とされる。さらに飛躍し過ぎかもしれないが、“西の通すし”の並びにある“かめ”という書入のある屋敷が二つもあり、これも不審であるが(1)〜(4)まで同じ書入である。これも名前が少し気になるのであるが、思い過ごしか・・・。

 

私は千道安が慶長12年以後も生存していたと考えてもいいかなと思うが、道安は田中姓である。しかし、隠遁の身であれば別の姓を用いることもあろうと思うが、では名前は変えないのかなとなると、これにも一理ありで、全く八方ふさがりである。ただ、利休切腹は秀吉時代の事で家康時代には全く関係はないのだが・・・。したがって、隠れる必要もあまりない筈。

どなたか埋忠一派の詳細な研究と成果を発表、そして千家に詳しい方に教示いただけると、ひょっとすると道安にぶつかるかも?・・・。

ここで更に大きな仮説を立てると、(1)・(2)・(3)の古地図には、共通して道安の屋敷の間口幅が書かれていない。とすると、道安は最初から未入村ではなかったのかという事も十分に考えられ、(1)・(2)・(3)より古い原図が存在した可能性があり、さらに飛躍的に考えれば、光悦の鷹ヶ峰拝領時期が今少し古い時期、もしくは拝領以前から光悦はそこに住んでいたとも考えるべきであろう。また、各人の入村時期もバラバラであった可能性も考えなければいけない。したがって、拝領時期等を前述の如く推測してみたのである。

とにかく、厄介な地図(略図)を残してくれたものである。

 

私は本サイトに、光悦の鷹ヶ峰の選択は従来いわれている様なものではないと書いた。光悦の本業は“研”であり、そのためには極上質の砥石が必要であり、その砥石山は鳴滝にあり、鷹ヶ峰の近くである。この極上質の鳴滝砥はかなり以前から全く産出しないが、江戸時代は刀の研の最終の仕上は現代、普通に使われている内曇砥ではなく、この極上質の鳴滝砥で仕上ていたと思っている。つまり、極上質の鳴滝砥がなくなったので、代用したのが内曇砥と考えている。したがって、この地(大事な極上質の鳴滝砥の産地周辺)は研の名人とされている光悦にとっては絶対に必要なロケーションであったと考えるべきである。因みに、本阿弥本家は砥石山からの運上金を取り立てているのはよく知られていた事でもある。
(文責・中原信夫)

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