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INTELLIGENCE

? 銘字・その一

Copywritting by Nobuo Nakahara

 

上は『鑑刀日々抄』(続)(本間順治著)に所載であるが、現在は表銘は削除されて、「古入道」と朱銘がある。

さて、「伯佐」というのは「佐伯」の誤刻であり、則重とも認められないが、裏年紀は肯定されて、「古入道」つまり古宇多国光とされている。しかし、右掲押型を見ていただくと、表銘より裏年紀、殊に「応」という銘字のみが太すぎ鮮明すぎるのは大きな?である。

つまり、自分の銘字(刀工銘)は刻り慣れているとしても、年紀は元号が変るし、殆んど則重には年紀はないのだから刻り慣れていないのが本当。なのに年紀のみが余りにも鮮やかすぎるのは偽銘の証拠。したがって、本刀は表裏の刻銘は全て偽銘であり、年紀を肯定する意見も不合理であり、それに年紀をのみを残して古入道との朱銘を施す考え方にも全く理解できない(B)参照。

 

さて、(A)では銘文を「伯佐則重」と訓んでいますが、(A)を精査しても私には「□伯則重」としか訓めません。本来、佐伯則重と刻るべきを、逆に「伯佐」と刻っていると『鑑刀日々抄』では述べて、この銘は偽銘と断じているが、目釘孔の位置と「伯」・「則」・「重」の銘字の間隔から見ても同書にいう「伯佐」ではなく「□伯」としか見えません。つまり、上の目釘孔を生孔と考えるしかありませんから、孔の上に□の一字を刻ってあったと一応推測。

下の孔の下部にはタガネ痕と見えるのがあり、これを「佐」とみたのでしょうが、このように訓むと銘字各々の間隔がバラバラで、「則」と「佐」がくっつきすぎで、後あけ孔(下の孔)を意識した銘字となり余計に?です。やはり、「□伯則重」と刻ってあったと考えるべきですが、本来、砥石を絶対にかけてはいけない部分(錆際・研溜)に、明らかに広範囲にわたり、後世になって砥石がかけられた痕跡が明瞭に残っていますし、同じ痕跡が指裏の「元応」の「元」が底銘状となった部分も残った状態となり不合理で、したがって、この元応の年紀も偽銘となります。

 

また、年紀を見ますと、前述のように本来、年紀は元号が変わるし、殆んど刻らない刀工であるから、その字体は刻り慣れないのが通例。なのに表銘のタガネと同じ以上の力強い調子で刻っていて、特に「応」の「广」だけが太タガネで太きく刻っていて、生孔(と思える)が、その部分にドンとあるし、妙な略字になっているのも大きな?である。

もっとも、大事なのは刀工銘であるのに、その最初の刻銘を砥石で除去したのも大きな?である。つまり、表裏共に偽銘であるという結論。

 

しかし、この年紀は正真として認めた上、それを残して表銘を消し「古入道」と朱銘を入れた。朱銘は戦後になって施したのであろうが、朱銘はまだましで、すぐに剥ぎ取れるが、朱銘を入れるという考え方に?を呈せざるを得ない。生中心には朱銘という短絡的な発想だったと思う。それよりも消すべきは、年号であったはず。もっとも表銘も賛成できない銘ではあるが・・・。

因みに表銘は「佐伯住則重」とあったかもしれないのである。いづれにしても、偽銘である。

相州傳を偏愛する権威者?にも困ったものであるし、日本三作という本阿弥家の大嘘に見事にだまされているとも気づかない権威者?もピエロである。
(文責・中原信夫 令和元年九月八日)

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